カテゴリー「文化・芸術」の記事

くだらない議論を

どうして國の國語關係の審議會といふのはかうも程度がひくいのだらう。大東亞戰爭敗戰後のどさくさにまぎれて世にも愚劣な新かなを制定し、當用漢字を制定した。漢字制限→將來的には漢字全廢、音標文字化といふ考への當否はここでは問はないが(もちろんわたしは否であると思ってゐる)、字數の制限だけではなく、愚劣醜惡極まりない字體の改變をおこなった。
この國語政策は當初、新聞社など字數制限の恩惠を受ける勢力のつよい支持を受けたが、コンピューターの發展・普及にともなひ、字數制限の恩惠が新聞社・印刷業者等のみならず、實際に文章を書く個人にとってもうすれ、むしろつかひたい字がつかへない不便の方ばかりが目につくやうになった。戰後國語改革はもはや破綻したのだ。
しかし文部(科學)省もいまさら國語改革は破綻しました、全部チャラにします、とも言へず、姑息な彌縫策のみをくりかへしてゐる。いま現在も常用漢字表の改定を作業中だ。なんでも191字ほど追加するらしい。ちょっとまへにどんな字が追加されるかの一覽が新聞にのってゐたが、わたしは見てゐない。わたし自身は常用漢字表にしばられる氣などさらさらないからだ。
だが、Yahoo!ニュースを見てゐたら、『「しんにょう」の点は1つ?2つ? 結論持ち越し 文化審漢字小委』といふ記事があったので、讀んでみた。くはしくはリンク先を讀んでほしい。
それにしても文化審議會漢字小委員會の委員といふのは馬鹿と暇人のあつまりなのだらうか。よくこんなつまらないことで議論を白熱させて結論を持ち越したりできるなと思ふ。
文字の表記といふのは本來フレキシブルなものだ。特に手書き文字といふのはどうしてもさうなる。アルファベットの筆記體をみればよくわかるはずだ。たとへば「Q]などは活字體とほぼ同じやうにも書けば、圓の部分を閉ぢずに「2」にちかいやうなかたちにも書く。わたしが小學生のころ見た子供向けのテキストにも本によって兩方の字體があった。
文字數のすくないアルファベットでさへさうなのだ。文字數の多い漢字はなほさらだ。漢字にはさまざまな異體字があるのはそのためだ。よく知られたところでは「島」「嶋」「嶌」などがある。これはどれが正しいといふものではない。どれでもよいのだ。ただ、敎育などの便宜の點から、なにかを標準にするのはやむをえないだらう。きはめてバラエティにとむ日本語を、東京山の手のことばをベースとして「標準語」をさだめたやうに。
之繞にしてもおなじことだ。2點なり1點なりを標準とさだめ、他方でもよい、としておけばよいだけのはなしだ。どちらを標準とするのが望ましいかといへば、當然傳統的な字體である2點だらう。その採用を躊躇するべきではない。ましてや
子供に『この字はなぜ2点?』と聞かれて簡単に説明できない
から1點にすべきだなんて主張は本末轉倒もいいところだ。本來すべきは、いままで1點としてきた既存の常用漢字の之繞の字體もこれを機に2點を標準とあらため、從來からの經緯にかんがみ1點も可、とすることだらう。
だいたいからして1點だ2點だと決めつけなければ子どもに敎へられないといふ發想からして非敎育的だ。こたへはただ一つといふ○×テスト的發想の産物にすぎない。正解が複數あるものは複數あると、曖昧なものは曖昧だと敎へるのが敎育の役目ではないのか。ちがふといふのなら、たとへば「之繞」はなんと讀むのだ。これは學校でも「しんねう」でも「しんにゅう」でも可、と敎へてゐるのではないか。「延繞」は「えんねう」なのに「之繞」は「しんにゅう」だなんて子どもに説明ができないなんて言ってゐる馬鹿はゐないはずだ。
さういふ意味で事務局案といふのは(既存常用漢字の字體にふれないといふ大きな瑕疵はあるが)、比較的まともなものだ。それに對して1點統一案をとなへてゐる一部の委員とやらはまさに曲學阿世の徒と言って過言ではない。かういふ連中は日本語と日本のためにさっさと委員を辭任してほしい。

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ツンデレももはや學術研究對象

土曜ことばの会」といふ言語學研究會があるさうです。詳細はリンク先を。
その次囘(10月11日)の發表會では「役割語としてのツンデレ表現―役割表現研究の可能性―」 といふ發表がおこなはれるとのこと。ツンデレももはや立派な學術研究對象なんですね。發表者は粗忽亭の大學漫研の先輩です。なほ、

第2弾、「ツンデレ表現の待遇性」も執筆中です。

ださうです。
ちなみに、發表者は甲南女子大学文学部日本語日本文化学科の日本語學の教授ですので、岡田斗司夫さんの「オタク文化論」なんかとは相當毛色のちがふものだと思ひます。多分。

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京都の日本料理店、ミシュラン掲載を拒否

asahi.comの記事より。
掲載を拒否、ってのは言葉のあやです。ミシュランが勝手に評價し、勝手にのせたって文句は言へんだらうし。つまり、「ミシュラン」にのせるための寫眞撮影を拒否してる、ってことです。
これ、思ふに紅白歌合戰とロックミュージシャンみたいなもんぢゃないかな。いまの紅白にどれぐらゐの權威があるのかは知らんけど、かつて視聽率70%とかとってたころの紅白は大變な權威があった。出演するのは一流人氣歌手の證明みたいなものだった。紅白に出るとギャラのランクがはねあがったらしい。特に演歌系の歌手なんかは、地方公演のギャラがドンとあがるので、紅白出演の有無はまさに死活問題だったらう。
しかし、たとへばロックミュージシャンとか、最初からテレビでの仕事をやってゐない、コンサートだって賣り興行でないミュージシャンは紅白に出るメリットは無いにひとしい。紅白のギャラ自體はたいした額ではないらしいし、それでゐてリハーサルなどに長時間拘束されて、自分の出番以外のアトラクションにも參加させられて、っていふんぢゃ、出たがらない人が多くても不思議はない。
この件はそれに似てゐる。
「ミシュラン」はそもそも旅先でのレストランガイド、といった性格のものだ。つまり、はじめて行っても安心な店を紹介してゐる。しかしここで對象にされた京都の日本料理店は、大抵が一見客おことはりだ。ガイドにのせてもらってもメリットはないし、問ひ合はせてくる一見客にいちいち對應しなければいけなくなるのなら、デメリットばかり、とさへいへるだらう。
元記事には料理研究家の服部幸應さんの

世界のグルメが和食を食べに日本に来る国際化の時代。観光都市・京都の名店がミシュランの評価をボイコットするなら残念な話だ

といふコメントものってゐるが、それよりある老舖店主の

フランスの調査員が、我々の文化や伝統を学んでいるとは思えない

といふ意見の方にわたしは共感する。
文化といふものは、本質的にローカルなものだ。よく「世界に通用する文化」などといふいはれ方をされるが、文化なんてものは世界に通用しなくてもよい。もちろん通用しても一向にかまはないが、そのために文化の方からすりよる必要はない。「たまたま」通用してしまったのなら、それもよし、といふ程度でよいのだ。
たとへば漢詩なんてものは、高島俊男先生によれば、日本人がいくら勉強したって四分の一もわかれば御の字ださうだ。それはさうだらう。最低でも支那語ができなければ、詩の音韻的なうつくしさは理解できないだらう。詩の背景には膨大な漢籍の教養もある。そしてなにより、支那人が支那語で支那人としての生活の中からつくるからこそ漢詩なのであって、たとへおなじ漢字を共有してゐるからといって、日本人がおいそれと支那人(の教養人)とおなじやうなものが作れるわけがない。
われわれの文化だってさうだ。フランス人に俳諧を、イギリス人に和歌を、アメリカ人に連歌を評價されたくはないだらう。
文化の方から「世界標準」にすりよるとどうなるか。われはれはすでに「柔よく剛を制する」はずの柔道が力まかせ(ゆゑに體重別)で、さらには一本をとるよりもこせこせとポイントをかせいだ方が有利なJUDOになってしまった例を知ってゐる。
「ミシュラン」にのせてもらへてありがたい、とか言って、「權威」にしっぽをふってゐるよりは、突っぱねてしまふ方がとにもかくにも京都らしい。
わたし個人としては、いちいち紹介が必要なところで飯を食ひたいとは思はないが、かういふ文化もあっていい。京都の料理店の矜持と見識をわたしは支持したい。

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兒童ポルノ法の永六輔

痛いニュース(ノ∀`)」で知ったのだが、法政大學社會學部の白田秀彰准敎授(一橋大學法學博士[註1])が、私は兒童ポルノに該當するものを單純所持してゐる、兒童ポルノの單純所持が違法化された曉には 、他の誰を摘發するよりも先に私を逮捕しろ、と宣言してゐる。
くはしくは直接リンク先を讀んでほしいが、ごく簡單にまとめると、つぎの趣旨のやうだ。
・2001年第三刷發行の荒木經惟さんの寫眞集を古本屋で購入した。
・これには10歳未滿とおぼしき兒童の性器付近が鮮明に描寫されてゐる。
・これは法學者である自分から見て、避けようがなく「兒童ポルノ」に該當する。
・ゆゑに兒童ポルノの單純所持が違法化されたら、私を逮捕せよ。
白田准敎授がこのやうな行動に出たのは「2001年まで何の問題がなかった本を、そのまま保持しているだけで、いつの間にかその本が違法品となり、なんら違法なところのなかった所有者が、いつの間にか容疑者になるカフカの『変身』的不条理について、立法者や法執行関係者と議論してみたい」ためとのこと。
粗忽亭も以前、かつて本屋で普通に賣ってゐた、まったく合法であった書籍・雜誌がいきなり違法になってしまふおそろしさについて書いたが、白田准敎授がうったへやうとしてゐるのは同樣のことのやうだ。
それはそれとして、この白田准敎授の「俺を逮捕せよ」といふ宣言を讀んで、粗忽亭は永六輔さんを思ひ出してしまった。
かつて、計量法によって、尺貫法の使用は刑事罰をもって禁止されたことがあった。それを遺憾とした永さんは、みづから曲尺鯨尺を密造密賣して、それを公言し、みづからの逮捕をうったへるなどの運動をおこなった。しかし警察・檢察は永さんを逮捕しえず、結果、尺貫法の使用が默認されるにいたった(リンク先參照)。白田准敎授の方法論はこれと同じといえよう。
永さんと白田准敎授とでは、法の成立(施行)の前後との差異はあるが、白田准敎授のこの作戰、はたして永さんなみに功を奏すであらうか。
なほ、リンクした白田准敎授の宣言文、後半は單純所持違法化の問題點だけではなく、性表現・猥褻表現規制の問題點等にもふみこんでをり、たいへんよみごたへがある。白田准敎授の主張には粗忽亭はことごとく贊成だ。粗忽亭がいままで文章化し得なかったことを、みごとにまとめてゐる。さすがに學者として、文章(論文)を書く訓練を受けただけのことはあると、心より感心した次第だ。

(附記)
「痛いニュース(ノ∀`)」にある、2ちゃんねるでのコメントを見ると、『こいつが変態なのは良くわかった』『これは反権力を気取った真性ロリの捨て身戦法だな』『自分の性癖正当化しようとしてるんだぜ』『とどのつまり単なるロリコン野郎だろw』『ロリが息巻いてるだけじゃねーか。』『ただの変態ロリコン野郎だろ』『いつなんの目的でそれ買ったんだよオッサン』などといふのがたくさんあってあきれる。白田准教授は『私はこの本を、一連の問題の当事者となるために古書店で入手した。』『その10歳未満と見られる児童の裸体写真を見たとき、もう40歳になる私の意識に浮かんだ言葉は「親の顔が見たい」というものだった。』と書いてゐるのだが。ソースもろくに讀まずにコメントつけてゐるんですね。

[註1]1998年の取得なら「博士(法學)」とかぢゃないかと思ふのだが、本人の履歴書に「法学博士」とあるので、とりあへずさう書いておく。

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漢字(戰後略字)に關する迷妄

どことはいはないが、私が目を通してゐるとあるブログで漢字の字體のことがちょっと話題になった。そこに次のやうなコメントがついた。

〈引用ここから〉
私は、あまりいろんな漢字を区別して使うことに反対です。たとえばわたなべさんという苗字は、以前は渡辺か渡部の2種類が書けたらよかったのに、このごろは渡邊とか渡邉とか、とても憶えられないような漢字をつかいます。(コンピュータだから書けるので手では書けない。私は辺で勘弁してもらってます)この2字の違いはルーペがないとわからないので、老眼には、ジジハラとしか思えません。こんな苗字のひとは渡辺に換えなさい。そのほうがトクですよ。

日本は戦争に負け、民主的な世の中にするため、漢字を簡略化しました。「恋」は戦前は 糸言糸+心 と書いた(わかりますか)。「体」は昔、 骨豊 と書いた(うまい)。ずっと便利になった。ところが、君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力が、いろいろ戦前の体制に戻す運動の一環として、名前に関しては、旧字の使用を認めた。そのインボーに安易に乗っかった人が自分も困り、まわりも困らせているのです。
〈引用ここまで〉

私はこのブログはまったくのROMなのだが、正字正かな主義者の私まで「君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力」と言はれてゐるみたいで、なんとなく不愉快であった。
私は「民主主義者」ではないが「反民主主義勢力」でもない。民主主義には一定の效用をみとめてゐる。それと同時に一定のマイナス面も認めてゐるだけだ。この點について書きはじめると民主政治と民主主義とをわけて論じるなど、日乘の1エントリではとてもおさまらない量になるので、省略する。問題は漢字の戰後略字(當用漢字、常用漢字、擴張新字體)についてだ。本來は當該ブログのコメント欄に書くべきことかもしれないが、そこは漢字についてのブログではなく漫畫についてのブログであり、KYと言はれかねないので自分のところに書く。
引用部分の前半については、まことに大きなお世話ではないだらうか。その傳でいけば、嶋田さん嶌田さんも島田と書け、といふことだらうか。名前といふのはアイデンティティそのものだ。どういふ字體で表記するかは大きく言へば個人の信條にかかはってくる。安易に損得で判斷すべきものではない。前にも書いたが、德川光圀を德川光國と書かれたら、やはり變だ。ほかにも私は澁澤龍彦(彦は本當はこの字ではない)を渋沢竜彦と書かれたら別人のやうにしか思へない。
後半については、ほかにもなんとなく、こんなふうに思ってゐる人がゐるのではないだらうか。これはまったくの誤解、といふより迷妄である。戰後の漢字改革(當用漢字音訓表制定による漢字制限ならびに略字體の採用)は民主主義とは關係がない。
日本には明治以來、否、幕末の前島密以來、日本語の音標文字化を主張する勢力が多數ゐた。その言はんとするところは、單純化すると「日本や支那よりも進んでゐる歐米諸國は漢字など使ってゐない。音標文字を使ってゐる。ゆゑにわが國語も音標文字(かな乃至ローマ字)化すべきだ。」といふことだ。
これは明治以來、政府、特に文部省の方針として長く維持されてきた。文部省の肝煎りでナントカ調査會とかナントカ審議會といふものが作られ、何度もその方向での答申が出された。しかし、一國の文字表記をかへようといふのである。當然反對もつよい。有名どころでは新村出博士が反對者だ。そのため、戰前は一度も決定・實施にいたらなかった。
ところが大東亞戰爭の敗戰による混亂に乘じて、といふか、一億總懺悔、これまでのものはすべてマチガイ、といふ風潮に乘じて文部省がクーデター的に發表・實施したのが當用漢字音訓表だ。當用漢字音訓表の發表時點では、文部省はこれは過渡的なものとかんがへてゐた。過渡とはなんの過渡か。漢字全廢、國語の音標文字(具體的にはかな)化のだ。そのために漢字の數を制限して、字體も簡略化したのだ。しかし、その後、中心勢力であったカナモジカイの松坂忠則の引退もあって、そこで頓挫した。ざっと言へばこのやうな經緯だ。以上見たやうに、當用漢字音訓表制定は明治以來の政府・文部省の宿願であった。戰後の民主化とは關係ないことが理解できよう。
漢字を簡略化して便利になった、といふが、印刷の字體と手書きの字體は別物だ。手書きでは國を国、あるいは口、または口の中にヽ、で一向に構はない。別段正字だからといって不便だといふことはない。
右派勢力の中に比較的正字正かな派が多いのは事實だらうが、だからといって「戦前の体制に戻す運動の一環として」「旧字の使用を認めた」といふのは飛躍にすぎない。先に名前をあげた澁澤龍彦などは「君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力」どころか、みづからアナーキストをもって任じてゐた人だ。これをみても政治思想と文字表記の思想(とでもいふべきもの)は關係ないことがわからう。
文字の表記といふのは純粹に文化の問題だ。變に政治とからめてかたるのはやめてほしい。

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大相撲はスポーツか文化か

明日、朝靑龍が橫綱審議委員會であやまることになったさうですね。なんでも高砂親方が朝靑龍があやまりたいと言ってゐる、と勝手に橫審に言って、その後、朝靑龍に連絡して了解をとった、とか。
變ですよね。本來なら、朝靑龍の方からあやまりたいからさういふ場所をつくってください、と言ふべきですよね。まあ本人は今でもあやまるやうな惡いことをしたとは思ってゐないんでせうね。現に日刊スポーツの記事では“最初は驚いて「えっ?」とか言っていたけど、”“戸惑いながらも「はい。分かりました」と返答した”とのことですから。
いまや橫綱といへば外國出身力士の指定席のやうになってしまってゐますが、ほんの十數年前までは外國出身橫綱といふのは歴代一人もゐなかった。小錦が橫綱になれずに、米紙にこれは人種差別のためだと言ったとか言はなかったとかで問題になったこともありました。
その前後のことだったと思ひますが、とある橫審の委員が、外人橫綱はいらない、橫綱の條件に「品格、力量が拔群であること」とあるが、外人力士にはふさはしい品格がそなはらない、などと發言したこともありました。
當時は隨分無茶なことを言ふなあ、と思ったものですが、今にして思へばこの發言、一理も二理もあったのだなあと思はざるをえません。
いまのわかい人たちはどう思ってゐるのかは知りませんが、筆者のやうな年寄は、やはり大相撲といふとただのスポーツではない、スポーツである以前に日本の文化だ、といふ感覺が自覺的にしろさうでないにしろあるやうに思ひます。實際、ふるくから宮中では相撲の節會がおこなはれ、いまでも天子樣の來臨を仰ぐことがあるのですから。日本人であれば子どものころからさういふことを見聞きしてきてをり、それゆゑ力士となる者も自然、品格といふことを意識したのではないかと思ひます。
それに對して外國出身力士は、さういふ原體驗がない。それゆゑ、入門後、あるいはその前にどんなに敎育を受けたとしても、歴史のある格鬪技、といふ程度の認識しか持てないのかもしれません。
もちろん、外國出身力士だからといって、絶對に橫綱にふさはしい品格がそなはらないとは言へないでせう。かつての高見山(現東關親方)のやうに、日本人以上に日本人らしいといはれた力士もゐました。逆に前田山のやうに、橫綱免許に「粗暴の振る舞ひこれありし時には自責仕る可く候」とただし書きをつけられた品格に少々疑問點のある橫綱もゐましたが。(この二人が師弟であるといふのは歴史のあやでせうか。)
さういふことを考へると、いまのやうに外國出身力士が多數をり、橫綱をはじめ上位陣の多くを外國出身力士で占めるやうになると、もはや日本文化としての大相撲は成り立たないのかもしれません。現在、大相撲はスポーツとしての側面と文化としての側面を兩立させようとしてゐるやうです。しかし、どだい、外國出身者を受け入れた上で日本文化であり續けるのは無理なのではないでせうか。
さうすると、純スポーツか、文化かのどちらかを選ばなければならないときが近づいてゐるのかもしれません。
純スポーツとするのなら、外國人の受け入れ制限も全廢する。力士の行動も法に反さないかぎり、とやかく言はない。割りの決定も、番付と成績の兩面から人爲的に決めてゐるのをあらため、機械的に決める。本割りでの同部屋對決もおこなふ。といふより、部屋制度そのものも見直さなければならないかもしれません。さらには日本相撲協會の非公益法人化も視野に入れなければならないでせう。
文化とするのなら、日本國籍保持者以外の入門を認めない。橫綱のみならず、力士の品格保持をやかましく言ふ。同部屋對決はおこなはない。云々。とせざるをえないでせう。もちろん相撲協會は公益法人のままで、入門時の敎習もいまより充實させる。
さてその場合、どちらの大相撲が魅力的でせうか。われわれはどちらの大相撲を見たいのでせうか。私は結論を出せずにゐます。

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日本・韓國・中華人民共和國・中華民國の漢字字體の統一

前項で“mixiニュースの「このニュースに關する日記を書いた人」ぢゃないんだから。”と書いたら、ふと思ひ出した。
數日まえ、mixiニュースで「日・韓・中・台が漢字の字体統一を決定、主体は繁体字に」といふ記事(提供元はRecord China)を讀んだ。趣旨は4箇國の學者が字形の統一をすすめていく、といふことのやうだ。まあ、學者が決めても、それぞれの國(政府)が採用するかどうかはわからないが、基本的には結構なこころみだと思ふ。もっとも、事實上漢字を放棄した韓國がどうしてかかはるのかはよくわからないが。
繁體字といふのはおもに中華民國で使はれてゐる字體のことだ。くはしくは知らないが、所謂康煕字典體と大きくはことならないのではないかと思ふ。それを主體にするのであれば、たいへん結構なことだ。ただし、漢字には多くの異字體がある。豫と預、國と圀、高と髙、島と嶋と嶌の類だ。かういふものを無理に統一することはさけてほしい。德川光圀を德川光國と書かれたら感じが出ないでせう?いや、圀ってのが武則天のワガママでつくられた文字だといふことは知ってますけどね。
なんでこの記事を思ひ出したのかといふと、そのときたまたま「このニュースに關する日記を書いた人」のトップにあがってゐたのが、相當事實誤認をしてゐさうな感想だったからだ。
それで思ひ立って、さきほど「このニュースに關する日記を書いた人」の一覽を見てみた。うわ、481件もある。ざっと見たところ、七・三で反對意見のはうが多い。そのなかで目についた意見のうち、いくつかについてコメントしてみたい。

・支那語、朝鮮語、日本語ではおなじ字でも意味がちがふ(例 手紙、愛人)から無意味だ。→「字」の意味は基本的にはちがはないと思ふが。勿論、微妙なづれは當然ある。でも、手紙とか愛人とかは、字の意味のちがひではなく、熟語の意味のちがひだ。ついでにいふと、ヨーロッパ諸語のあひだでもさういふ例は結構ある。たとへば英語のcenturyは世紀だが、フランス語のcenturieは百個のひとかたまり、ぐらゐの意味らしい(これがノストラダムスの「百詩篇集」が「諸世紀」と誤譯された原因)。また、英語のcanalは運河だが、イタリア語のcanaliは溝(英語ならchannel)だ(これが火星の運河、の誤解のもと)。

・それぞれの國の漢字はそれぞれの國の獨自文化だ。→せめて數百年かかつてそれぞれ獨自に發展したのならともかく、中華人民共和國の簡體字、日本の常用漢字の字體はそれぞれ數十年の歴史しかない。常用漢字のもとになった當用漢字などは大東亞戰爭敗戰のどさくさに國語改革派=漢字廢止勢力がきはめて短時間に、十分な檢討もせずに、クーデター的にさだめたものにすぎない。そのために「仮」をハンではなくてカと讀むとか、「芸」がウンであったりゲイであったりとか(ゲイは本來藝)、矛盾が大きい。

・繁體字を基本にされたら、書くのに手間がかかってかなはん。→手書き文字と、印刷體またはコンピューターのフォントは別物。たとへば「くに」は手書きのときはロとか、ロの中に點とかでも一向にかまはない。

・同じ漢字圈といえどもすでに個々の進化をとげだ別の言語だと思ってもいいでせう。→もともと支那語、朝鮮語、日本語はまったく別の言語だ。ただ表記に漢字をつかってゐる(ゐた)といふだけのはなし。たとへばベトナム語はかつては漢字で表記されたが、いまはローマ字で表記される。このやうに言語と表記(文字)といふのは、本質的に關係がない。もっとも漢字はまさに支那語を表記するために生まれた文字だから、これは密接な關係がある。なほ、日本語は現在にいたるまで類縁關係がまったく解明されてゐない、おそらくはまったく孤立した言語であって、支那語とはもとより、朝鮮語ともおそらく關係がない(勿論單語レベルでの影響は多々ある。しかし、現代日本語のなかに英語からの外來語が多いからといって、日本語と英語に類縁關係があるわけぢゃないのとおなじこと)。

・シナ・朝鮮への迎合だ。→飛躍のしすぎ。中共乃至朝鮮がうちにあはせろと要求したわけでもないし、繁體字がベースになるのなら、もっとも現行字體とかはるのは中華人民共和國だ。

・ちがふ言語で字體をそろへても意味がない。→有意性をいろいろあげるときりがないからやめるが、たとへば固有名詞だけでも表記が統一されればすばらしいことだと思ふ。東條英機を東條英机と書かれたくないでせう。

・これが本當にさうなってしまったら小學校で敎へるのは完璧な中國語になるわけだ。→だから言語と表記は關係がないって。それぢゃあ、大東亞戰爭敗戰以前の日本の言語は支那語なのか。

・エスペラントみたいに、繁體字のみを使って文法も單純にして新しい言語でも作ったらどうか。→支那語と英語は、類縁關係がないにもかかわらず、似てゐる點は結構多い。特に語順などはよく似てゐる。しかし、日本語と支那語には語順はもとより、似てゐる點はほとんど皆無といっていい。統一してあたらしい言語をつくるのは「絶對に」無理である。エスペラントはすぐれた言語だと思ふけれど、これもベースは印歐語であって、その他の言語は事實上無視されてゐる。

ああ、なんとなく書きはじめたら、やたら長くなってしまった。日本語についてのはなしをすると、ついアツくなってしまふなあ。いかんいかん。

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吾妻ひでおと「萌え」

吾妻ひでお先生が、「萌えの元祖」と言われることについて、「うつうつひでお日記」や「リュウ」誌で「俺は萌えなどという気持ち悪い言葉は知らん」という趣旨の発言をしていることが一部で話題になっているようだ(粗忽亭は「リュウ」誌は未読)。それについて少々考察を。(以下敬称略)
まず、「萌え」ということばが一般化したのは、1990年代であり、吾妻ひでおが純文学シリーズ等々を描いたり、「シベール」を作ったりしていたころにはなかったことばである、という点には留意する必要があろう。それゆえ吾妻が「俺は知らん」というのは当然といえば当然だ。当時、吾妻の描く美少女などをあらわすことばとしては「ロリコン」といのが一般的だった。この「ロリコン」というのは、本来のlolita complexとは少々意味あいがちがう、と思ったほうがいい。美少女―特に二次元のそれ―をめでる気もち、ぐらいにとらえておくのが妥当だろう。一説によると、lolita complexは英語だが、ロリコンは和製英語だ、ともいう。とすればanimationとアニメのちがい、変態と(その頭文字から発生した)エッチと(英語化した)hentaiのちがいのようなものかもしれない。
話がずれたが、そもそも吾妻ひでおの美少女キャラクターと現今の「萌え」キャラとは大きなちがいがあるように思う。それは「媚び」があるかどうかではないだろうか。
「萌え」キャラは作中の男性キャラに対して、また、読者(である男性)に対して、意識的か無意識かは別にしても「媚び」の要素が濃厚に感じられる。はやりのツンデレにしても、「ツンツン」の部分は「デレデレ」を引き立てるための要素、といってもいいのではないか。
それに対して吾妻美少女キャラは基本的に「媚び」がない。ミャアちゃん(猫山美亜)などはその典型だ。ななこだって、気弱でやさしいだけであって、媚びているわけではない。「やけくそ黙示録」の阿素湖素子などは潜入した学校で、教師からお前には男への媚びがない、と明確に指摘されている。
これは還元すれば、「萌え」キャラ系の作品は一般的にいって男性が主で女性が従、という構造なのに対して、吾妻作品は基本的に女性が中心であり、男性キャラはそれにふりまわされる役割だ、ということにもなる。「ななこSOS」あたりはそのへんの配分が微妙だが(ただし私は、この作品においてもななこという「状況」に周囲がふりまわされているのだと思うが)、「スクラップ学園」、「やけくそ天使」、「贋作ひでお八犬伝」、「みだれモコ」等においては、確実に女性キャラクターが世界の中心の位置を占めている。
そういうことを考えあわせれば、吾妻ひでおを「萌えの元祖」と位置づけるのは、やはりまちがっている、というべきではないかと私は思うのだ。
それでは吾妻が現在の「萌え」に無関係かというと、そんなことはない。吾妻ひでおがいなければ現在の「萌え」はなかった、というのはいいすぎかもしれないが、少なくともいまの「萌え」とは随分ちがったものになっていたであろうと思うし、あるいはこの状況は10年遅れていたかもしれない。
結局吾妻ひでおは「萌えの元祖」ではなく、「萌えの源流(のひとつ)」に位置づけるべきなのではないだろうか。どんな大河も源流は小川であったり湧き水であったりする。だがそれは大河そのものではない。その源流にそのほかの源流が合わさり、雨がくわわったりして大河になるのだ。
「萌え」な作品を描いている人には直接・間接に吾妻ひでおの影響を受けている人は多いと思う。そんなわけで、吾妻ひでおは「萌えの源流の(主要な)ひとつ)」というのがもっとも正確なのではないか、と私はかんがえるのだ。

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2月19日 博物館のホネ

というわけで、「博物館のホネ」の楽日にいってきた。
前半はちょっと退屈だったけど、後半はまずまず、といったところか。
レナというコスプレ看護婦はサービスキャラクターだろうか。
ところで開演前、階段で山本正之さんとすれちがった。スーツ姿だった。年末に赤十字に何百万円かを寄付しに行くときもジーンズだというが、今日スーツなのは演出家モードなのだろうか。

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6月29日 久原大河ポスター・チラシ展

6月10日の記事で触れた久原大河画伯のポスター・チラシ展へ行ってきた。森下文化会館には、30日にも「梅津和時こまっちゃクレズマ+おおたか静流 下町ライブ!」のために行くのだが、仕事が終わってから行っても大河展を見ている時間的余裕がなさそうなので、今日、行ってきたのだ。
ロビーの一角に展示してあるだけなので、「あ、これなら明日、急いで見れば大丈夫だったな。」と一瞬、思ったのだが、しげしげと見入ったり、書き文字を読んだりしていると結構時間がかかった。やっぱり今日来ておいて正解だ。
大河画伯の作品はかなり見ているつもりだが、こうしてみると初見の作品も結構あったりする。それにしても、どの作品もただの絵ではなく、いわばカートゥーン的なアイデアが必ずあってあらためて感心する。
展示を見ていたら、多田葉子さんや関島岳郎さんらの姿を発見。リハだそうだ。
同じ1階ロビーに「田河水泡・のらくろ館」という常設展もあったので、ついでに見てくる。

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6月19日 トンデモ本大賞2004-ほろ苦き日

筆者が日本SF大会に参加していたころ、一番楽しみだったのがこのトンデモ本大賞であった。ただし、一昨年からSF大会には参加しなくなり、大会から独立した去年は当日、気力がさっぱりなくって参加しなかった。よって、今年は3年ぶりということになる。今年もなんかいまいち元気がなくて、前売りを買っていなければ不参加になるところであった。
そんなわけで、家を出るのが遅くなり、到着が開演ぎりぎりになってしまった。1階の真ん中あたりに空席を見つけて座る。そこそこの席だと思ったのだが、おたく臭がするのはしかたがないとして、隣席が癇にさわる大声で笑う。あまりいい状況とはいえない。
内容はどこかで書かれるだろうし、なによりも「と学会年鑑」に載るだろうから、詳しくは書かない。(とか言っているうちに、唐沢俊一氏が詳細に日記に書いていた。イベントの詳しい内容を知りたい方はそちらをどうぞ。)ごく簡単に、私的な感想とかだけを書いておく。
まず、唐沢俊一氏と声氏による開会宣言。唐沢氏がトンデモ本大賞の歴史を説明するのに、「もともとは日本SF大賞の付属企画であった。」と発言。それも2回も。勿論、先に書いたとおり、日本SF大会の間違いである。日本SF大賞といえば、たま出版とならぶトンデモ本の総本山、徳間書店が勧進元ではないか。それではまさに自作自演になってしまう。
最初は「トンデモ本を楽しむための基礎講座」。
続いて「と学会発表エクストラ」。本郷ゆき緒さんの発表がたいへんうまく、感心する。
それからメイン企画である「候補作発表」。
それから休憩。この間に投票が行われる。休憩は40分間とアナウンスがあったが、実際は30分間であった。だいぶ押していたせいか。休憩の間に物販コーナーで「トンデモ本の世界S」「同T」「と学会誌11」「同12」を買う。サイン会もやっているので、ミーハーな筆者も「S」と「T」に各人のサインをもらう。
それから、集計の時間を利用しての立川談之助師匠の「トンデモ落語」。噂に聞く「赤尾敏物語」。ただ、ネタにされているエピソードは知っているものが多く(もともとは左翼であること、戦前に1度、代議士を務めていることなど)、それほど笑えない。転向後の赤尾氏の主張が(談之助師匠はその言葉を使っていないが)勤皇社会主義であったことを知ったのは収穫か。あと、枕の部分で明らかな人名の間違いあり。間違いであることは分かるが、何と間違ったのかは分からない。横田めぐみさんは帰ってきていないのだから、あれじゃあ、意味が通らない。
そして最後に大賞発表である。
全体を通して。あんまり笑えなかった。何回かクスリとした程度だ。場内は大うけだったし、隣席など、こちらの耳がおかしくなるほど大声で笑っていたのだが。筆者は隣席の1%も笑っていないだろう。ライブに行ったときの十分の一も楽しめないでいる自分に気付く。
これはおそらく筆者の側の問題なのだろう。と学会本を寝転がって読む程度には面白がれても、わざわざこういうイベントに来るほどには楽しめなくなってきているのだ。はじめて「日本SFごでん誤伝」を読んだときのような衝撃からは程遠くなっている。もはやSF大会にも行かなくなってしまった筆者にとっては、トンデモ本大賞は最後のおたく系イベントかと思っていたのだが、それも今回限りになりそうだ。
一抹のさびしさ、というのか、ほろ苦い感覚が胸をよぎる。かつての自分がもはや過去のものになっていることを自覚させられた。
このあと、Coilのライブに行く予定だったのだが、野暮用があり、一旦帰宅。ところが、ちょっとしたトラブルがあり、行けなくなってしまった。Coilには体調不良やら何やらでしばらく行けていないなあ。行けないときには行けないことが重なるものだ。
ところで、「と学会誌11」を見ていたら、MH氏という執筆者がいる。筆者の旧友と同姓同名だが、本人だろうか。まあ、同氏がと学会に入っていてもそれほど驚かないが。何かのついでに聞いてみよう。

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大河画伯の腕時計

Yahoo! Auctionを見ていたら、11日の記事のT画伯こと久原大河画伯のオリジナル腕時計が出品(販売)されていた。「どけいon the web」とかいうところでも販売するらしい。
大河画伯の最近の活躍は友人としてうれしい限り。たいへん才能のある人なので、もっともっと世に知られてほしいものだ。
しかしYahoo! Auctionの説明に「今回この腕時計のためにイラストを書き下ろして頂いた」と書いてあったが、あれ、見たことある絵だぞ。Festa in Vinylのフライヤーとかで。東京キララ社さん、そーゆーことはちゃんとしないといかんのではないかい?

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