カテゴリー「文化・芸術」の記事

もうなにがなにやら

稀代の惡法といふべき東京都靑少年健全育成條例改正案が昨日、可決されてしまひました。この條例改正を推進した人たちは日本をどうしたいのでせうね。北鮮や中共のやうに、言論・表現をお上が隨意に取り締まれるやうな社會にするのが究極の理想なのでせうかね。私が心から誇りとする日本の言論の自由、表現の自由をぶちこはし、さらには世界をリードする日本の漫畫文化を衰頽させようと考へてゐるのかもしれません。この條例改正を推進した人たちは全員、惡質な反日勢力であると斷定せざるを得ません。
さて、その反日勢力の親玉である石原慎太郎都知事は條例改正の成立に際して「あたりまへだあたりまへ。日本人の良識だよ。」と發言したとか。といふことは、石原氏から見れば、この條例に反對する人は良識のない人、といふことになりますね。つまり、ごく一部だけをあげますが、里中満智子、ちばてつや、藤子不二雄A、萩尾望都、西岸良平、こうの史代といった日本を代表する漫畫家はそろひもそろって良識のない人たちなんでせうね。こうの史代さんは文化廳メディア藝術祭マンガ部門大賞を受賞してゐますから、そんな人に賞をあたへる文化廳は良識のない官廳といふことになってしまひさうです。
ちばてつやさんは文部科學大臣賞を受賞してゐますから、文化廳どころかその上級官廳である文部科學省そのものが良識のない官廳なのでせう。
いえ、それどころではありません。ちばさん、西岸良平さんは紫綬襃章を受賞してゐますし、藤子不二雄Aさんは旭日小綬章に敍勳されてゐます。內閣府賞勳局も良識のない官廳といふことになりませうか。
ちなみに襃章も敍勳も天皇の國事行爲です。といふことは、石原氏は閒接的に天皇陛下も良識がないと言ってゐることになってしまひさうです。やっぱり反日勢力……。
なほ、この條例改正に反對を表明してゐるのは個人だけではありません。たとへば日本辯護士聯合會や日本ペンクラブも反對聲明を出してゐます。日辯連もペンクラブも良識のない團體なんでせうね、きっと。それにしても石原氏も猪瀨直樹副知事も、その良識のない日本ペンクラブの會員なんですが、これはなぜなんでせうね。條例改正を「良識」と言ひ切るのなら、石原氏や猪瀨氏はなぜペンクラブを脱退しないのか。こんな良識のない連中と付き合ってゐても平氣なんでせうか。
そんでもって、ナンパした女を輪姦した擧句、崖から突き落として殺す「完全な遊戯」や、ナンパした女を睡眠藥で昏睡させて强姦(正確には準强姦か)し、處女だった女を發狂させてしまふ「処刑の部屋」なんて小說を書いた石原氏は良識があふれてゐるといふことなんでせうか。もうなにがなにやらわかりません。石原氏のいふ「良識」と私の知ってゐる「良識」とはまったく別物のやうです。

文化廳的には「手をこまねく」のださうだ

文化廳から平成20年度「国語に関する世論調査」の結果についてが發表されてゐます。その調査結果については特に論評する氣はないのですが、氣になったのは「10.言葉の意味」の項目。
五つの言葉を挙げて,どの意味で使っているかを尋ねた
ものなのだけど、その(1)が「手をこまねく」。たしかに辭書にすら「こまねく」がのってゐたりするけれど、本來は「こまぬく」。「こまねく」ってのは、いはば「ねこ」を「ぬこ」と言ってゐるやうなものだ。「ぬこ」よりもずっと許容度は高いけどね。
それでも文化廳のやうな機關が調査するのなら「こまぬく」でするべきだと思ふんだけどなあ。
これで何年かのちに「手をこまぬく」と「手をこまねく」のどちらが正用か、てな調査をやって「あやまって“こまねく”と言ってゐる人が多い」なんてコメントが出たりするとわらふなあ。
それはさうと、googleで檢索してみると、「手をこまぬく」が約30,200件、「手をこまねく」が約11,800件でした。結構ただしくつかってゐる人が多いといふことなんですね。

心配したとほりになってきた

所謂兒童ポルノ禁止法の改正案が衆議院で審議されてゐますね。その審議の中でこんなやり取りがあったさうですよ(リンク先參照)。
「10年前、20年前、30年前とかに製造・販売されて手元にあるものを、そんなものをみんな調べるんですか?」と問いただした枝野議員に、法案提出者である自民党の葉梨康弘議員は、こう答弁した。
「児童ポルノかも分からないなという意識のあるものについては、やはり廃棄をしていただくのが当たり前だと思います」

ださうです。
つまり、かの宮沢りえさんの「Santa Fe」だって持ってゐるだけで犯罪になってしまふ可能性があるといふことです。
みなさん、「Santa Fe」ですよ、「Santa Fe」。あの一大社會現象になった、150萬部が賣れた「Santa Fe」ですよ。日本中いたるところにありふれてゐるあの「Santa Fe」ですよ。アイドル好きのあなたも、寫眞好きのあなたも、ブームにはとりあへず乘るミーハーのあなたも持ってゐるんぢゃありませんか。もう18年もまへに出た本ですから、買ったには買ったけど、どこにしまひこんだかわからなくなってゐる、といふかたも多いと思ひます。
そんなみなさんもこの改正案が通ったら、1年以内にさがし出して捨てないと「兒童ポルノ所持者」といふ忌まはしい汚名のもと、逮捕されてしまふかもしれないのですよ。
わたしは以前のエントリーで、たとへば「カメラ毎日」のバックナンバーを持ってゐるだけでも逮捕されかねない、と書きました。それが現實化してしまひかねないのですよ。
いや、さすがにわたしも「Santa Fe」まで違法になるとは思ひませんでした。現實はわたしの心配を上回ってしまひさうです。
法案提出者である自民黨の葉梨康弘議員は
廃棄までに1年の猶予があり、有名なものなら政府が(違法になるかどうかを)調べるとも述べた
さうですが、調査對象になるものなんてごく一部でせう。それこそ「Santa Fe」だとか、篠山紀信さんの「少女神話」だとか。むかしアラーキーが大量に少女寫眞を撮ってゐたことがありましたね。あれなんかどうなるんでせうね。「Santa Fe」がだめなら、沢渡朔さんの「少女アリス」なんて絶對だめでせうね。藝術だって言っても認めてくれないでせう。
澁澤龍彦先生愛藏の古寫眞「交叉する少女」(でしたっけ)なんかまちがいなくアウトでせうね。さういへば、むかし澁澤龍彦展でカタログがはりに賣ってゐた季刊みづゑ編輯部「澁澤龍彦をもとめて」にこの寫眞、收録されてゐたやうな氣が。こんな本、どこに行ったかわからないよ。この改正案が通ったら、わたしも「Santa Fe」御所持の皆樣方や白田秀彰先生ともども犯罪者の仲間入りですね。とほほほほ。

新常用漢字の音訓もいまひとつ整合性に缺けるやうな氣が

今日の朝日新聞朝刊に《新常用漢字表をよむ 上 「書く」から「打つ」に対応》といふ記事が出てゐた。新常用漢字表(正式名稱未定)は、かなり制限色の薄まったものになり、なにかと柔軟になるやうなのだが、この記事を讀んでゐてちょっと氣になったことがある。それは

 「私」の訓「わたくし」に「わたし」が追加されるのは意外だった。「わたし」の方が実際にはよく使われているから。二つの訓の入れ替えも検討されたが、現状では難しく、併記することにした。

 「世界中」とか「町中」と言う時の「中」の音「ジュウ」は、実は常用漢字表になかったので追加される。

 「十」の音も「ジュウ」と「ジッ」だけで、「ジュッ」はなかった。常用漢字表の約束事だけに従えば、「十回」は「ジュッカイ」とは読めないわけだ。新常用漢字表では「ジュッ」という音も認めることを備考欄に注記する。

といふ部分。「私」や「中」の方には特に異論はないのだが、「十」の讀みに「ジュッ」を認めるといふのはいかがなものだらうか。
「十」の音は、もとの支那語のjipといふ音がjip→jipu→jifu→jiuと變化したものが「ジュウ」(正かなでは「ジフ」)であり、jip→jipu→jitu→jitと變化したものが「ジッ」である。(註1) よって「ジュウ」と「ジッ」の二つの音があるのだ。「十回」は「ジッカイ」であって、「ジュッカイ」といふのは二つがまじった、いはばなまりにすぎない。(註2) いや、「ジュウ」だから「ジュッカイ」ぢゃないかとおっしゃる向きもおありだらうが、その傳でいけば「九回」は「キュッカイ」になってしまふ。(註3)
實際に口から出る發音はともかくとして、新常用漢字表のやうな場でなまりを、いはば公式に認めてしまふといふのは不適當なのではないだらうか。
もちろん、實際には「ジュッカイ」と發音してゐる人が多いのだから、といふ考へ方もあるだらう。しかしそれを言ひ出したら、どこで線を引くべきかといふ難問が發生する。引用文中の前半部分では「私」の訓について書いてある。「わたし」といふ訓は「わたくし」が縮まったものだが、これは「わたくし」から「わたし」といふ語(あるいは訓)が派生したと解釋できるので、「わたし」が追加されるのは妥當だと思ふ。しかし、「私」を「あたくし」とか「あたし」となまって發音する人は少なからずゐるが、これは採用されてゐない。「ジュウ」といふなまりは許容で、「あた(く)し」といふなまりはダメといふ根據はなにかと問はれたら、きちんとこたへられるのだらうか。
さういふことを考へあはせると、新常用漢字表の音訓には「なまり」は採用しない方がよいと思ふ。表には原則の音訓だけをのせる。ただし、實際の發音に關してはあまり目くぢらを立てない。(註4) さういふ對應が一番よいのではないだらうか。

(註1)簡略化して書いてゐますので、「いや、その説明では不當だ、そもそも入聲といって云々」といふ御指摘は御容赦ください。
(註2)だから「備考欄に注記する」かたちをとるのだらうが。なほ、 わたしも日常的には特に意識しないかぎり「十回」は「ジュッカイ」と發音してゐます。
(註3)「九」は入聲ではなく、漢音としては「キュウ」(正かなでは「キウ」)のみで、「キッ」といふ音はありません。なほ、「ク」は呉音。おなじ「キュウ」でも「急」は入聲なので、「キュウ」(正かな「キフ」)のほかに「キッ」の音があります。常用漢字音訓表にはのってゐませんが。用例としては、あまり思ひつかないので當て字でまうしわけありませんが、「急度」(キット)なんてのがあります。
(註4)つまり、ふりがなをつけるのなら「ジッカイ」だけど、「ジュッカイ」と發音しても許容する、といふことです。「わたし」だって、一部地方の人はさう書いて「ワタス」のやうな發音をするでせう。それはそれで良いのではないかといふのがわたしの立場です。

くだらない議論を

どうして國の國語關係の審議會といふのはかうも程度がひくいのだらう。大東亞戰爭敗戰後のどさくさにまぎれて世にも愚劣な新かなを制定し、當用漢字を制定した。漢字制限→將來的には漢字全廢、音標文字化といふ考への當否はここでは問はないが(もちろんわたしは否であると思ってゐる)、字數の制限だけではなく、愚劣醜惡極まりない字體の改變をおこなった。
この國語政策は當初、新聞社など字數制限の恩惠を受ける勢力のつよい支持を受けたが、コンピューターの發展・普及にともなひ、字數制限の恩惠が新聞社・印刷業者等のみならず、實際に文章を書く個人にとってもうすれ、むしろつかひたい字がつかへない不便の方ばかりが目につくやうになった。戰後國語改革はもはや破綻したのだ。
しかし文部(科學)省もいまさら國語改革は破綻しました、全部チャラにします、とも言へず、姑息な彌縫策のみをくりかへしてゐる。いま現在も常用漢字表の改定を作業中だ。なんでも191字ほど追加するらしい。ちょっとまへにどんな字が追加されるかの一覽が新聞にのってゐたが、わたしは見てゐない。わたし自身は常用漢字表にしばられる氣などさらさらないからだ。
だが、Yahoo!ニュースを見てゐたら、『「しんにょう」の点は1つ?2つ? 結論持ち越し 文化審漢字小委』といふ記事があったので、讀んでみた。くはしくはリンク先を讀んでほしい。
それにしても文化審議會漢字小委員會の委員といふのは馬鹿と暇人のあつまりなのだらうか。よくこんなつまらないことで議論を白熱させて結論を持ち越したりできるなと思ふ。
文字の表記といふのは本來フレキシブルなものだ。特に手書き文字といふのはどうしてもさうなる。アルファベットの筆記體をみればよくわかるはずだ。たとへば「Q]などは活字體とほぼ同じやうにも書けば、圓の部分を閉ぢずに「2」にちかいやうなかたちにも書く。わたしが小學生のころ見た子供向けのテキストにも本によって兩方の字體があった。
文字數のすくないアルファベットでさへさうなのだ。文字數の多い漢字はなほさらだ。漢字にはさまざまな異體字があるのはそのためだ。よく知られたところでは「島」「嶋」「嶌」などがある。これはどれが正しいといふものではない。どれでもよいのだ。ただ、敎育などの便宜の點から、なにかを標準にするのはやむをえないだらう。きはめてバラエティにとむ日本語を、東京山の手のことばをベースとして「標準語」をさだめたやうに。
之繞にしてもおなじことだ。2點なり1點なりを標準とさだめ、他方でもよい、としておけばよいだけのはなしだ。どちらを標準とするのが望ましいかといへば、當然傳統的な字體である2點だらう。その採用を躊躇するべきではない。ましてや
子供に『この字はなぜ2点?』と聞かれて簡単に説明できない
から1點にすべきだなんて主張は本末轉倒もいいところだ。本來すべきは、いままで1點としてきた既存の常用漢字の之繞の字體もこれを機に2點を標準とあらため、從來からの經緯にかんがみ1點も可、とすることだらう。
だいたいからして1點だ2點だと決めつけなければ子どもに敎へられないといふ發想からして非敎育的だ。こたへはただ一つといふ○×テスト的發想の産物にすぎない。正解が複數あるものは複數あると、曖昧なものは曖昧だと敎へるのが敎育の役目ではないのか。ちがふといふのなら、たとへば「之繞」はなんと讀むのだ。これは學校でも「しんねう」でも「しんにゅう」でも可、と敎へてゐるのではないか。「延繞」は「えんねう」なのに「之繞」は「しんにゅう」だなんて子どもに説明ができないなんて言ってゐる馬鹿はゐないはずだ。
さういふ意味で事務局案といふのは(既存常用漢字の字體にふれないといふ大きな瑕疵はあるが)、比較的まともなものだ。それに對して1點統一案をとなへてゐる一部の委員とやらはまさに曲學阿世の徒と言って過言ではない。かういふ連中は日本語と日本のためにさっさと委員を辭任してほしい。

ツンデレももはや學術研究對象

土曜ことばの会」といふ言語學研究會があるさうです。詳細はリンク先を。
その次囘(10月11日)の發表會では「役割語としてのツンデレ表現―役割表現研究の可能性―」 といふ發表がおこなはれるとのこと。ツンデレももはや立派な學術研究對象なんですね。發表者は粗忽亭の大學漫研の先輩です。なほ、

第2弾、「ツンデレ表現の待遇性」も執筆中です。

ださうです。
ちなみに、發表者は甲南女子大学文学部日本語日本文化学科の日本語學の教授ですので、岡田斗司夫さんの「オタク文化論」なんかとは相當毛色のちがふものだと思ひます。多分。

京都の日本料理店、ミシュラン掲載を拒否

asahi.comの記事より。
掲載を拒否、ってのは言葉のあやです。ミシュランが勝手に評價し、勝手にのせたって文句は言へんだらうし。つまり、「ミシュラン」にのせるための寫眞撮影を拒否してる、ってことです。
これ、思ふに紅白歌合戰とロックミュージシャンみたいなもんぢゃないかな。いまの紅白にどれぐらゐの權威があるのかは知らんけど、かつて視聽率70%とかとってたころの紅白は大變な權威があった。出演するのは一流人氣歌手の證明みたいなものだった。紅白に出るとギャラのランクがはねあがったらしい。特に演歌系の歌手なんかは、地方公演のギャラがドンとあがるので、紅白出演の有無はまさに死活問題だったらう。
しかし、たとへばロックミュージシャンとか、最初からテレビでの仕事をやってゐない、コンサートだって賣り興行でないミュージシャンは紅白に出るメリットは無いにひとしい。紅白のギャラ自體はたいした額ではないらしいし、それでゐてリハーサルなどに長時間拘束されて、自分の出番以外のアトラクションにも參加させられて、っていふんぢゃ、出たがらない人が多くても不思議はない。
この件はそれに似てゐる。
「ミシュラン」はそもそも旅先でのレストランガイド、といった性格のものだ。つまり、はじめて行っても安心な店を紹介してゐる。しかしここで對象にされた京都の日本料理店は、大抵が一見客おことはりだ。ガイドにのせてもらってもメリットはないし、問ひ合はせてくる一見客にいちいち對應しなければいけなくなるのなら、デメリットばかり、とさへいへるだらう。
元記事には料理研究家の服部幸應さんの

世界のグルメが和食を食べに日本に来る国際化の時代。観光都市・京都の名店がミシュランの評価をボイコットするなら残念な話だ

といふコメントものってゐるが、それよりある老舖店主の

フランスの調査員が、我々の文化や伝統を学んでいるとは思えない

といふ意見の方にわたしは共感する。
文化といふものは、本質的にローカルなものだ。よく「世界に通用する文化」などといふいはれ方をされるが、文化なんてものは世界に通用しなくてもよい。もちろん通用しても一向にかまはないが、そのために文化の方からすりよる必要はない。「たまたま」通用してしまったのなら、それもよし、といふ程度でよいのだ。
たとへば漢詩なんてものは、高島俊男先生によれば、日本人がいくら勉強したって四分の一もわかれば御の字ださうだ。それはさうだらう。最低でも支那語ができなければ、詩の音韻的なうつくしさは理解できないだらう。詩の背景には膨大な漢籍の教養もある。そしてなにより、支那人が支那語で支那人としての生活の中からつくるからこそ漢詩なのであって、たとへおなじ漢字を共有してゐるからといって、日本人がおいそれと支那人(の教養人)とおなじやうなものが作れるわけがない。
われわれの文化だってさうだ。フランス人に俳諧を、イギリス人に和歌を、アメリカ人に連歌を評價されたくはないだらう。
文化の方から「世界標準」にすりよるとどうなるか。われはれはすでに「柔よく剛を制する」はずの柔道が力まかせ(ゆゑに體重別)で、さらには一本をとるよりもこせこせとポイントをかせいだ方が有利なJUDOになってしまった例を知ってゐる。
「ミシュラン」にのせてもらへてありがたい、とか言って、「權威」にしっぽをふってゐるよりは、突っぱねてしまふ方がとにもかくにも京都らしい。
わたし個人としては、いちいち紹介が必要なところで飯を食ひたいとは思はないが、かういふ文化もあっていい。京都の料理店の矜持と見識をわたしは支持したい。

兒童ポルノ法の永六輔

痛いニュース(ノ∀`)」で知ったのだが、法政大學社會學部の白田秀彰准敎授(一橋大學法學博士[註1])が、私は兒童ポルノに該當するものを單純所持してゐる、兒童ポルノの單純所持が違法化された曉には 、他の誰を摘發するよりも先に私を逮捕しろ、と宣言してゐる。
くはしくは直接リンク先を讀んでほしいが、ごく簡單にまとめると、つぎの趣旨のやうだ。
・2001年第三刷發行の荒木經惟さんの寫眞集を古本屋で購入した。
・これには10歳未滿とおぼしき兒童の性器付近が鮮明に描寫されてゐる。
・これは法學者である自分から見て、避けようがなく「兒童ポルノ」に該當する。
・ゆゑに兒童ポルノの單純所持が違法化されたら、私を逮捕せよ。
白田准敎授がこのやうな行動に出たのは「2001年まで何の問題がなかった本を、そのまま保持しているだけで、いつの間にかその本が違法品となり、なんら違法なところのなかった所有者が、いつの間にか容疑者になるカフカの『変身』的不条理について、立法者や法執行関係者と議論してみたい」ためとのこと。
粗忽亭も以前、かつて本屋で普通に賣ってゐた、まったく合法であった書籍・雜誌がいきなり違法になってしまふおそろしさについて書いたが、白田准敎授がうったへやうとしてゐるのは同樣のことのやうだ。
それはそれとして、この白田准敎授の「俺を逮捕せよ」といふ宣言を讀んで、粗忽亭は永六輔さんを思ひ出してしまった。
かつて、計量法によって、尺貫法の使用は刑事罰をもって禁止されたことがあった。それを遺憾とした永さんは、みづから曲尺鯨尺を密造密賣して、それを公言し、みづからの逮捕をうったへるなどの運動をおこなった。しかし警察・檢察は永さんを逮捕しえず、結果、尺貫法の使用が默認されるにいたった(リンク先參照)。白田准敎授の方法論はこれと同じといえよう。
永さんと白田准敎授とでは、法の成立(施行)の前後との差異はあるが、白田准敎授のこの作戰、はたして永さんなみに功を奏すであらうか。
なほ、リンクした白田准敎授の宣言文、後半は單純所持違法化の問題點だけではなく、性表現・猥褻表現規制の問題點等にもふみこんでをり、たいへんよみごたへがある。白田准敎授の主張には粗忽亭はことごとく贊成だ。粗忽亭がいままで文章化し得なかったことを、みごとにまとめてゐる。さすがに學者として、文章(論文)を書く訓練を受けただけのことはあると、心より感心した次第だ。

(附記)
「痛いニュース(ノ∀`)」にある、2ちゃんねるでのコメントを見ると、『こいつが変態なのは良くわかった』『これは反権力を気取った真性ロリの捨て身戦法だな』『自分の性癖正当化しようとしてるんだぜ』『とどのつまり単なるロリコン野郎だろw』『ロリが息巻いてるだけじゃねーか。』『ただの変態ロリコン野郎だろ』『いつなんの目的でそれ買ったんだよオッサン』などといふのがたくさんあってあきれる。白田准教授は『私はこの本を、一連の問題の当事者となるために古書店で入手した。』『その10歳未満と見られる児童の裸体写真を見たとき、もう40歳になる私の意識に浮かんだ言葉は「親の顔が見たい」というものだった。』と書いてゐるのだが。ソースもろくに讀まずにコメントつけてゐるんですね。

[註1]1998年の取得なら「博士(法學)」とかぢゃないかと思ふのだが、本人の履歴書に「法学博士」とあるので、とりあへずさう書いておく。

漢字(戰後略字)に關する迷妄

どことはいはないが、私が目を通してゐるとあるブログで漢字の字體のことがちょっと話題になった。そこに次のやうなコメントがついた。

〈引用ここから〉
私は、あまりいろんな漢字を区別して使うことに反対です。たとえばわたなべさんという苗字は、以前は渡辺か渡部の2種類が書けたらよかったのに、このごろは渡邊とか渡邉とか、とても憶えられないような漢字をつかいます。(コンピュータだから書けるので手では書けない。私は辺で勘弁してもらってます)この2字の違いはルーペがないとわからないので、老眼には、ジジハラとしか思えません。こんな苗字のひとは渡辺に換えなさい。そのほうがトクですよ。

日本は戦争に負け、民主的な世の中にするため、漢字を簡略化しました。「恋」は戦前は 糸言糸+心 と書いた(わかりますか)。「体」は昔、 骨豊 と書いた(うまい)。ずっと便利になった。ところが、君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力が、いろいろ戦前の体制に戻す運動の一環として、名前に関しては、旧字の使用を認めた。そのインボーに安易に乗っかった人が自分も困り、まわりも困らせているのです。
〈引用ここまで〉

私はこのブログはまったくのROMなのだが、正字正かな主義者の私まで「君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力」と言はれてゐるみたいで、なんとなく不愉快であった。
私は「民主主義者」ではないが「反民主主義勢力」でもない。民主主義には一定の效用をみとめてゐる。それと同時に一定のマイナス面も認めてゐるだけだ。この點について書きはじめると民主政治と民主主義とをわけて論じるなど、日乘の1エントリではとてもおさまらない量になるので、省略する。問題は漢字の戰後略字(當用漢字、常用漢字、擴張新字體)についてだ。本來は當該ブログのコメント欄に書くべきことかもしれないが、そこは漢字についてのブログではなく漫畫についてのブログであり、KYと言はれかねないので自分のところに書く。
引用部分の前半については、まことに大きなお世話ではないだらうか。その傳でいけば、嶋田さん嶌田さんも島田と書け、といふことだらうか。名前といふのはアイデンティティそのものだ。どういふ字體で表記するかは大きく言へば個人の信條にかかはってくる。安易に損得で判斷すべきものではない。前にも書いたが、德川光圀を德川光國と書かれたら、やはり變だ。ほかにも私は澁澤龍彦(彦は本當はこの字ではない)を渋沢竜彦と書かれたら別人のやうにしか思へない。
後半については、ほかにもなんとなく、こんなふうに思ってゐる人がゐるのではないだらうか。これはまったくの誤解、といふより迷妄である。戰後の漢字改革(當用漢字音訓表制定による漢字制限ならびに略字體の採用)は民主主義とは關係がない。
日本には明治以來、否、幕末の前島密以來、日本語の音標文字化を主張する勢力が多數ゐた。その言はんとするところは、單純化すると「日本や支那よりも進んでゐる歐米諸國は漢字など使ってゐない。音標文字を使ってゐる。ゆゑにわが國語も音標文字(かな乃至ローマ字)化すべきだ。」といふことだ。
これは明治以來、政府、特に文部省の方針として長く維持されてきた。文部省の肝煎りでナントカ調査會とかナントカ審議會といふものが作られ、何度もその方向での答申が出された。しかし、一國の文字表記をかへようといふのである。當然反對もつよい。有名どころでは新村出博士が反對者だ。そのため、戰前は一度も決定・實施にいたらなかった。
ところが大東亞戰爭の敗戰による混亂に乘じて、といふか、一億總懺悔、これまでのものはすべてマチガイ、といふ風潮に乘じて文部省がクーデター的に發表・實施したのが當用漢字音訓表だ。當用漢字音訓表の發表時點では、文部省はこれは過渡的なものとかんがへてゐた。過渡とはなんの過渡か。漢字全廢、國語の音標文字(具體的にはかな)化のだ。そのために漢字の數を制限して、字體も簡略化したのだ。しかし、その後、中心勢力であったカナモジカイの松坂忠則の引退もあって、そこで頓挫した。ざっと言へばこのやうな經緯だ。以上見たやうに、當用漢字音訓表制定は明治以來の政府・文部省の宿願であった。戰後の民主化とは關係ないことが理解できよう。
漢字を簡略化して便利になった、といふが、印刷の字體と手書きの字體は別物だ。手書きでは國を国、あるいは口、または口の中にヽ、で一向に構はない。別段正字だからといって不便だといふことはない。
右派勢力の中に比較的正字正かな派が多いのは事實だらうが、だからといって「戦前の体制に戻す運動の一環として」「旧字の使用を認めた」といふのは飛躍にすぎない。先に名前をあげた澁澤龍彦などは「君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力」どころか、みづからアナーキストをもって任じてゐた人だ。これをみても政治思想と文字表記の思想(とでもいふべきもの)は關係ないことがわからう。
文字の表記といふのは純粹に文化の問題だ。變に政治とからめてかたるのはやめてほしい。

大相撲はスポーツか文化か

明日、朝靑龍が橫綱審議委員會であやまることになったさうですね。なんでも高砂親方が朝靑龍があやまりたいと言ってゐる、と勝手に橫審に言って、その後、朝靑龍に連絡して了解をとった、とか。
變ですよね。本來なら、朝靑龍の方からあやまりたいからさういふ場所をつくってください、と言ふべきですよね。まあ本人は今でもあやまるやうな惡いことをしたとは思ってゐないんでせうね。現に日刊スポーツの記事では“最初は驚いて「えっ?」とか言っていたけど、”“戸惑いながらも「はい。分かりました」と返答した”とのことですから。
いまや橫綱といへば外國出身力士の指定席のやうになってしまってゐますが、ほんの十數年前までは外國出身橫綱といふのは歴代一人もゐなかった。小錦が橫綱になれずに、米紙にこれは人種差別のためだと言ったとか言はなかったとかで問題になったこともありました。
その前後のことだったと思ひますが、とある橫審の委員が、外人橫綱はいらない、橫綱の條件に「品格、力量が拔群であること」とあるが、外人力士にはふさはしい品格がそなはらない、などと發言したこともありました。
當時は隨分無茶なことを言ふなあ、と思ったものですが、今にして思へばこの發言、一理も二理もあったのだなあと思はざるをえません。
いまのわかい人たちはどう思ってゐるのかは知りませんが、筆者のやうな年寄は、やはり大相撲といふとただのスポーツではない、スポーツである以前に日本の文化だ、といふ感覺が自覺的にしろさうでないにしろあるやうに思ひます。實際、ふるくから宮中では相撲の節會がおこなはれ、いまでも天子樣の來臨を仰ぐことがあるのですから。日本人であれば子どものころからさういふことを見聞きしてきてをり、それゆゑ力士となる者も自然、品格といふことを意識したのではないかと思ひます。
それに對して外國出身力士は、さういふ原體驗がない。それゆゑ、入門後、あるいはその前にどんなに敎育を受けたとしても、歴史のある格鬪技、といふ程度の認識しか持てないのかもしれません。
もちろん、外國出身力士だからといって、絶對に橫綱にふさはしい品格がそなはらないとは言へないでせう。かつての高見山(現東關親方)のやうに、日本人以上に日本人らしいといはれた力士もゐました。逆に前田山のやうに、橫綱免許に「粗暴の振る舞ひこれありし時には自責仕る可く候」とただし書きをつけられた品格に少々疑問點のある橫綱もゐましたが。(この二人が師弟であるといふのは歴史のあやでせうか。)
さういふことを考へると、いまのやうに外國出身力士が多數をり、橫綱をはじめ上位陣の多くを外國出身力士で占めるやうになると、もはや日本文化としての大相撲は成り立たないのかもしれません。現在、大相撲はスポーツとしての側面と文化としての側面を兩立させようとしてゐるやうです。しかし、どだい、外國出身者を受け入れた上で日本文化であり續けるのは無理なのではないでせうか。
さうすると、純スポーツか、文化かのどちらかを選ばなければならないときが近づいてゐるのかもしれません。
純スポーツとするのなら、外國人の受け入れ制限も全廢する。力士の行動も法に反さないかぎり、とやかく言はない。割りの決定も、番付と成績の兩面から人爲的に決めてゐるのをあらため、機械的に決める。本割りでの同部屋對決もおこなふ。といふより、部屋制度そのものも見直さなければならないかもしれません。さらには日本相撲協會の非公益法人化も視野に入れなければならないでせう。
文化とするのなら、日本國籍保持者以外の入門を認めない。橫綱のみならず、力士の品格保持をやかましく言ふ。同部屋對決はおこなはない。云々。とせざるをえないでせう。もちろん相撲協會は公益法人のままで、入門時の敎習もいまより充實させる。
さてその場合、どちらの大相撲が魅力的でせうか。われわれはどちらの大相撲を見たいのでせうか。私は結論を出せずにゐます。

2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ