カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

惡質タックル問題

例の日本大學のアメリカンフットボール部の問題で第三者委員會の中間報告が出たさうです。それでまたこの問題の報道がふえてきましたが、「惡質タックル問題」などと言はれてをりますね。
私などは惡質タックルがあるのなら、惡質ストロンガーとかもあるのかとかいらんことを考へてしまひます。
「惡質ストロンガーに注意! 怪人を退治してやるともちかけて金品をだまし取る惡質ストロンガーが出沒してゐますが、それらはすべて僞物です。假面ライダーは怪人退治に際して報酬を要求することはありません。」てな工合で。

「お里が知れる」と「先が見える」

いま、妻が「料理するのがこはいこはい」病にかかつてゐるので、夕食はもつぱら仕事がへりに外食です。
昨日はなんか牛タンが食ひたくなつたので、ひさしぶりに大戸屋へ行つた。「生姜醤油漬け炭火燒き牛たん定食」を食はうかと。
私のよく行く大戸屋はビルの4階にあるので、エレベーターに乘る。先に若いおにーちやんが一人乘つてをり、私のあとに若いおねーちやんが二人乘つてきた。
全員4階で降りる。4階には大戸屋しかないので、當然全員店に入る。
そのとき、三番目に乘つたおねーちやんがすつと一番に店に入り、ドアの内側にある順番待ちの名簿にごくナチュラルに自分の名前を一番に書く。
さういふ自分の行動になんの疑問もいだいてゐないらしい。エレベーターにあとに乘つた人が流れで先に入店することはあるだらうけど、普通の神經してゐたら先に乘つてゐた人に名前を書く順番をさり氣なくゆづるよね。一人分や二人分早くなつたつてどうつてことないんだし。かういふのをして「お里が知れる」と言ふんだらうなあ、と思つた。
さて、自分の番になり、席に案内される。テーブルに置いてあるメニュー(グランドメニューとは別におすすめとかのA4版ぐらゐのシートをパウチしてリングで閉ぢてあるもの)に「生姜醤油漬け炭火燒き牛たん定食」があるのを確認して注文。ところが「當店ではいま取り扱つてをりません。」よく見るとメニューシートの上にそのむねが書かれた小さなシールがはつてある。だつたら取り外しておけばいいのに、とも思つたが、裏面の品は有效だつたやうな氣もするので、まあ仕方がない。そもそも店舖限定メニューだし。しかしやつてゐないのならもつと目立つやうな大きいシールをはるとかしてほしいなあ。
次囘にでも頼まうと思つてゐた「いとより鯛の塩麹みりん漬け炭火焼き定食」を注文。さうしたら「品切れです。」オーダーを二つ續けてはじかれてさすがにあきれたよ。眞面目に商賣する氣あるのかな、と思つてしまつた。しかし、注文が品切れだつたとき、こちらがなんとなく申しわけないやうな氣がしてしまふのはなぜだ。
再々オーダーは似たところで「金目鯛の醤油麹漬け炭火焼き定食」にしようかとも思つたが、これもなかつたらさすがに自分の氣持ちがおさへられなくなりさうなので、確實にあるはずの「本日の魚の定食」(日替はり、3種あつた)よりカレイの鹽燒き定食を注文、無事夕食にありつくことができた。
しかしこれでまうしばらくは大戸屋にも來ることはないだらうな、と思つたのだが……。
そろそろ歸り支度を始めようとしてゐたとき、となりのテーブルの客がなんだつたかの定食を注文。御存じのやうに大戸屋では御飯は白米と五穀米をえらべて、大盛り無料。となりのテーブルの客は白米大盛りを注文。注文を受けたウェイターがしばらくするともどつてきて「いま、白米がありません。」つて……。となりの客は五穀米大盛りに變更してゐたけど(といふかせざるを得ない)、これには開いた口がふさがらなかつた。御飯がありません、つて、口が裂けても定食屋がいふ臺詞ぢやないでせう。定食屋の恥だとしか言ひやうがない。遲い時間だつたし、五穀米が切れてしまひました、ならわからなくもないけど(それでも十分恥づかしいと思ふが)基本中の基本の白米がないつて、それでよく店開けてゐられるな、と思つたよ。
ラストオーダーに時間も近づいてきてゐたので、御飯をあまらせないやうにとして豫測を誤つたのだらうけど、それでも炊け。白米のない定食屋なんて信用問題だらう。目先の損得にこだはりすぎて將來の大きな損失を生み出してどうする。もう商賣の基本がなつてゐないと言はざるを得ない。
實質創業者の死去後のお家騒動以來、大戸屋は業績不振ともいふが、かういふことに目配りができなくなつてきてゐるやうぢや、先は見えたかもしれない。少なくとも私の脚は大戸屋から大きく遠のくことにならう。

果たし合ひに出かける侍

の氣持ちださうです。はい、例の石原愼太郎元東京都知事の記者會見ですね。
それで肝腎の内容はといふと、「知らない」「わからない」の連發。そのうへ「私一人といふよりも行政全體の責任」「いまの混亂は豐洲移轉を止めてゐる小池現知事の責任」ださうです。たしか移轉決定當時は自分のリーダーシップで決定したやうなことをおっしゃってゐたやうに思ふのですが。つまりは「手柄はすべて俺のもの」「責任はすべて他人のもの」といふことですかね。
いやー、立派な侍ぶりですね。ここはひとつ、平田弘史先生にしかっていただきたい。
平田弘史先生の劇畫に出てくる侍ならば「それがしが任命した役人が進め、それがしが認可した案件。なんの申し開きやうもござらん。すべてはそれがしの責任でござる。この腹をかっさばいてお詫び申し上げる。」とか言って、切腹して果てる場面だと思ひますね。
侍の氣風のかけらもない人に侍を稱してほしくはありませんね。

最近のティガ(猫)

ほぼ3年ぶりに猫のはなしです。ってか、記事上げるのがそもそも1年4箇月ぶりですが。
わが家の大猫、ルートヴィヒ2世ことティガは體長(頭から尻尾の附け根まで)70センチメートル近くに見事に成長しましたが、昔ほどは人懐こくはなくなったやうです。
以前は人が來ると妻が抱いて出たことが多かったやうなのですが、最近はさういふことも少なくなったやうです。ま、抱くと重いせいもありますが。
ただ、先々月、ダスキンのお姉さん(參照)が來たときにひさしぶりに抱いて出たさうです。そのときにお姉さんに「わー、かっこよくなったねー。」と言はれたさうです。その日、私が歸宅すると妻が有頂天でその話をくりかへし、「もう名前も『かっこいい子ちゃん』にしちゃはうか。」とかうわ言を言ってをりました。
また、ダスキンのお姉さんが先月來たときには「私も仕事柄あちこちで猫を見ますけど、お世辭ぢゃなくこんなかっこいい猫、いませんよ。」と言ってくれたとか。まあ、からだが大きく、長毛がたてがみのやうで、キジトラ特有の精悍な貌をしてゐますからね。
それは良いのですが、妻はお姉さんに「ティガがかっこいいってお姉さんに言はれたって夫に言ったら大はしゃぎだった。」と言ったとか。大はしゃぎだったのはあんたでせうが。
さう言ったら「あなただって『かはいい猫はいっぱいゐても、かっこいい猫はさうはゐないからな。』とか言ってたぢゃないの。」とか言はれましたが、はしゃいぢゃゐませんよ。わが子がかっこいいとほめられてうれしくない親がどこにゐますかって話です。

ところで、私の毎日の朝食後の齒みがきのとき、ティガは大抵私のまはりをうろうろしてゐます。齒みがきが終はって着替えを取りに行くとついてくるのですが、その後着替えを持って戻らうとすると、このごろ私の脚に攻撃をしてくることが多くなりました。單にぢゃれついてゐるのではなく、爪を出してゐて明確に妨碍の意図があるやうです。
何なんでせうね。私の毎日のルーティンを見てゐて、かうやって出かけると夜まで歸ってこないことを理解してゐて、「パパ、行かないで。」とうったへてゐるのでせうか。
朝のこのとき以外はこんな行動は取らないので、さうとしか考へられないのですが。
おかげで今朝も出血沙汰でした。

朝日新聞の記者は引き算もできないのか

5月19日附朝日新聞東京本社版夕刊に「(京ものがたり)名取裕子、愛犬が眠る西寿寺 サクラの下で、ずっとそばに」といふ特輯記事がのってゐる。(村瀬伸也の署名つき記事)
その名取裕子さんの愛犬についてこのやうに書いてある。

 37歳の誕生日、ドラマのスタッフからもらった。(中略)
 別れは2012年6月。撮影で出かけている間に、預けていた動物病院で旅立った。16歳だった。(後略)

この記事に添へられてゐる名取さんのプロフィールにはかうある。

1957年、神奈川県横須賀市出身。(後略)

1957年生まれの人の37歳の誕生日といふと、1994年ですよね。愛犬が亡くなったのが2012年。2012-1994=18。
あれ、もらったのが生まれたばかりの仔犬だったとしても、18歳のはずですね。Wikipediaによると名取さんの誕生日は8月18日とのことなので、17歳9箇月と何日かの可能性はなくもありませんが、いづれにしろ16歳のはずはありません。
朝日新聞の記者さんは皆、一流大學御出身と思ってゐましたが、小學校低學年なみの引き算もできないのでせうか。
また、毎度申し上げることではありますが、記事になるまでにデスクや校閲など、何人もの人が目を通してゐるはずなのですが、だれも氣がつかなかったのでせうか。
まったくお粗末なお話です。

天聲人語の粗雜なくくりかた

本日附の朝日新聞天聲人語はドローンについてのはなしだが、次のやうに書きおこしてゐる。

古代ギリシャの大詩人アイスキュロスは変わった最期を遂げたらしい。

そして後半に次のごとき文がある。

冒頭の西洋文人のつながりで言えば(後略)

アイスキュロスとシェークスピアでは二千年もはなれた時代の人ではないか。これを西洋文人つながりといふことばでくくってしまってよいのか。おなじ古代ギリシャの文人をひくのならともかく。
逆の立場で考へてみよう。イギリス人に孔子のはなしにつづいて、同じ東洋の文人世阿彌によると、とか書かれたら、違和感ありまくりだらう。
朝日新聞では天聲人語の書き冩しを薦めてゐるが、こんな粗雜な文章を書き冩してどんなメリットがあるのか、わたしには理解不能である。

それ、「マルチ商法」ぢゃないでせう

4月23日附朝日新聞東京本社版夕刊に「(一語一会)タレント・壇蜜さん 母からの言葉」といふ特輯記事がのってゐる。
その中にこのやうな記述がある。

 東京都内の実家近く、ビルの1階に見慣れない店ができていた。通りがかりの人に無料でパンを配っていて、母や祖母も何度かもらった。なかをのぞくと、多くのお年寄りが話に聴き入っていた。3、4カ月後、店は突然なくなった。高額な布団や健康食品を売りつけるマルチ商法だと、後で知る。

それ、マルチ商法ぢゃないでせう。マルチ商法の定義はいろいろあるやうだが、基本的には連鎖販賣取引およびそれに類するもの、である。英語のMulti-Level Marketingが語源で、販賣組織にピラミッド型のヒエラルキーを形成し、上位者は下位者の販賣實績の一部をコミッションとして得ることができるやうな形態をとってゐる。ものの販賣を介したねずみ講のやうなものだ。
この記事の販賣形態はどう見てもマルチレベルな販賣形態ではない。かういふ無料もしくは格安物品で客を釣り、亢奮・催眠状態におとしいれ、高額かつ割高な物を賣りつけるのは、催眠商法、もしくはSF商法(新製品普及会といふ業者名に由來する)といふ。
この記事を書いた中島秀憲記者はマルチ商法とは惡徳商法の別名だとでも思ってゐるのではないか。新聞記者としてあまりに無知、不勉強である。
おそらくは文化部の記者だらうから、かういふ社會面的知識が貧弱だったのだらうが、それがそのまま紙面にのってしまふといふのはまったくもっていただけない。毎度のことながら、デスクや校正擔當はまともに仕事をしてゐるのか疑念に耐へない。

阪大さん、嘘をついちゃいけません

4月26日附の讀賣新聞に特別面として大阪大學の記事廣告が出てゐる。(東京本社版27面)
上段三分の二ほどが創藥研究關係のシンポジウム關聯記事。下段三分の一ほどが辭書ふうの阪大の紹介廣告。
その一番はしに「歴史」として以下の記述。「第6番目の帝国大学として1931年に創設。(以下略)」
え?第6番目の帝國大學は京城帝國大學でせう。7番目は臺北帝國大學。大阪帝國大學は8番目の帝國大學ですよ。阪大では京城、臺北の兩帝國大學はなかったことになってゐるのですか。堂々と歴史を僞造してはいけません。

平塚らいてう生誕43周年?

今朝、googleにアクセスしたら、トップページの繪は「青鞜」を讀む婦人の圖。カーソルを重ねてみると「平塚らいてう生誕43周年」とな。
なんで平塚らいてうが43歳なんだ。なにを勘違ひしたのかとWikipediaをひらけば

誕生 1886年2月10日
東京府麹町区三番町
死没 1971年5月24日(満85歳没)

ありゃりゃ。誕生日はあってゐるけど、生年と沒年をまちがへましたね。
それにしても生誕43周年って、googleの中の人はだれもヘンだと思はなかったのかなあ。

東京一極集中はいつからだ

讀賣新聞1月19日の編集手帳にこんな記述がある。

歴史を顧みれば、慶長19年(1614年)の冬の陣と翌年の夏の陣で、世の中心が江戸に移って以降、東京一極集中が続く。

編集手帳子はいったいどんな歴史をかへりみたんだらう。
たしかに豐臣氏の滅亡以降、政治の中心は江戸に移った。しかし江戸時代を通じて大坂は「諸國之臺所」といはれた經濟の中心地であり續けた。藏屋敷が建ち竝び、堂島の米會所は活況を呈した。また、寛永文化や元祿文化は上方を中心にさかへたのである。
江戸時代も後期の化政文化は江戸が中心であったと言ってもよいが、それでも地歌・筝曲は上方が中心であった。江戸後期の文藝でも與謝蕪村や上田秋成など、上方で活躍した人士は少なくない。
また、蘭學の中心地は江戸よりもむしろ長崎であった。それゆゑに前野良澤、大槻玄澤をはじめ多くの蘭學者が長崎に遊學してゐるのである。また、適塾の存在をかんがへれば、大坂の蘭學のレベルも輕視はできない。
そもそも江戸時代は封建時代である。封建制度とは封土によって建つ制度であり、すなはち地方分權的制度だ。もっとも日本の江戸時代といふのは世界史的にも珍しい、中央集權的な側面をもった封建制度ではあるが、それにしても東京(江戸)一極集中とは言ひがたい。
「下らない」といふことばがある。これは酒をはじめとする文物は上方のものが至上であり、江戸では上方から下ってきたものを「下りもの」といって尊び、さうでないもの(江戸地産のものなど)を「下らないもの」といったためと言はれてゐる。これのどこが一極集中だといふのだらう。
政治にしても、幕末は江戸よりもむしろ京都の方がある種、中心地の樣相を呈してゐた。決して「冬の陣と翌年の夏の陣で、世の中心が江戸に移って以降、東京一極集中が続」いたわけではないのである。
では東京一極集中がはじまったのはいつごろからだらうか。明治維新がひとつのきっかけであったことはたしかだらう。だが、それ以降も大阪は纖維を中心とする輕工業の中心地として「東洋のマンチェスター」などと呼ばれてゐる。
私は他地域についての知見はあまりないのだが、こと大阪に關して言へば、その地盤沈下がいちじるしくなったのは戰後、特に高度成長期以降ではないのか。空襲で工場、商業地區、港灣施設、その他重要設備が灰燼に歸し、高度成長によって日本の工業の比重が輕工業から重工業にうつったことが大阪の經濟的な地位低下につながった。
どちらにしろ、東京一極集中などと言へる傾向はここ數十年、かなり擴大解釋しても明治以降の百數十年のものであらう。
それを江戸時代初期から續いてきたやうに書くのはあまりに不勉強である。世界最大の新聞の看板コラムがこれでは、ちょっとなさけない。

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