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【書評】成毛眞著「日本人の9割に英語はいらない」

なかなか痛快な本であった。成毛氏がこの本で主張してゐることを亂暴にまとめると、以下のやうになるだらう。

これからの世の中、英語ができなければ生きていけないやうに言はれるが、そんなことはない。英語を必要とするのはざっくり試算すれば日本人の1割でしかない。必要もないのに英語を勉強するのはカネと時間の無駄。そんな餘裕があるのなら、日本語の本の讀書で本物の教養を身につけろ。いつか自分の勤務先が外資に買收されるかもしれない、いつか海外赴任することがあるかもしれない、それにそなへてあらかじめ英語を勉強するのは無駄なこと。さうならなかったら役に立たないし、そもそも一旦おぼえてもどんどん忘れていくのだから、必要にせまられてから泥繩式に勉強すればよい。社内公用語を英語にしたら英語しか能のないやつが幅をきかせるだけ。小學生からの英語教育も無駄。英語の第二公用語化なんてとんでもない。それは文化的に植民地になるやうなものだ。それよりは日本文化の理解をふかめる方が有用だ。インド・フィリピン・ブータン等の國民が日本の國民よりずっと英語ができると言はれるが、それはその必要がある(さうでないと國がなりたたない)からだ。決してしあはせなことではない。云々。

内容的には日ごろわたしが思ったり主張したりしてゐることと大差ない(たとへばこのエントリのコメント欄を參照)。ただ、高校・大學と英語(第二外國語の中國語も)では何度も赤點をいただいたわたしが言っても説得力にかけるが、マイクロソフト日本法人の社長だった成毛氏が言ふと説得力がある。
もちろん、成毛氏は「1割の人」に英語が必要であることは否定しない。その「1割の人」には外資系企業に勤務する人、長期海外滯在者、研究者・醫師、等のみならず、外人觀光客等を相手にする人(外人の泊まるホテルの從業員はもとより、新幹線の車掌、デパートの店員等)もふくまれる。そしてこの本の最後の第6章では、さういふ人のために、成毛氏が英語を身につけたときの方法を紹介する。それがだれにでも適用可能かどうかはわからないが、參考にはなるだらうし、自分の状況にあはせてアレンジすれば、応用は可能だらう。

といふわけで、たいへんおもしろく讀ませてもらったが、第3章「本当の『学問』をしよう」の書きかたにはちょっとひっかかるところがあった。内容に、ではない。そちらはおほむね同意する。あくまで書きかたそのものだ。
まづ、サダム・フセインのエピソードを紹介するところ。

> ジョークをよく飛ばし、小鳥にえさをあげ、神への祈りも欠かさず(後略)

とある。「小鳥にえさをあげ」はいただけない。かういふ表現をすると文章が安っぽくなる。成毛氏は本書のなかで、英語を勉強する以前にきちんとした日本語を身につけるはうが大切だ、といふ趣旨のことも述べてゐるだけに、これは殘念だった。
それから、2010年夏の東大駒場生協の文庫本賣上のトップが「僕は友達が少ない」であったことを紹介して、「東大生、大丈夫か?」と書いてゐるが、2010年夏の、それも文庫本にかぎった賣上のトップに噛みついてもしかたがないと思ふ。教養系の本は文庫以外の形態で出てゐることが多いし(成毛氏が第5章で推薦してゐる本もほとんどが文庫本ではない)、ライトノベルのやうな娯樂書はみんなが讀むから讀む、といふベストセラー的な傾向をもつのだから、それがトップに來たってなんの不思議もない。成毛氏は

> 読んでもいいが、大学の生協で買わずに、アマゾンでこっそり注文するぐらいのプライドは持つべきだろう。

と書いてゐるが、なぜ、そこまでしなければいけないのか。生協で買ったっていいぢゃない。5%か10%安く買へるんだし。見榮のために本を買ふわけぢゃないのだから。
むづかしさうな本ばかり東大生協のベストセラーにならんでゐるより、「あいつは(あるいは東大生は)ライトノベルばかり讀んでゐるやうに見えるけど、實は深い教養がある。いったいいつ勉強してゐるんだらう。」ぐらゐに思はれたはうがかへってカッコよいではないか。
それから成毛氏は東大のことを「最高学府」とかいてゐる。文脈からすると、日本の大學の最高峰の意味でもちゐてゐるやうだ。だが、「最高學府」とは單に大學の意味だ。このあたりも少々いただけない。
それから、東大生の折り紙サークルの話題を持ち出し、

> 「東大に入っておきながら折り紙か?」と呆れ果ててしまう。

とも書いてゐるが、彼らとて折り紙しかしてゐないわけではあるまい。折り紙「も」してゐたからといって何ら批判するには當たらないと思ふが。
さう言ふ成毛氏御自身も贖讀してゐる英語雜誌のうちの1誌として「モデル・エンジニア・マガジン」をあげてゐる。これとて「いい大人が船や飛行機のミニチュア模型作りか」と言へなくもない。他人の趣味の領域にまでケチはつけないはうがよい。

まあ、さういったこまかい缺點はあるものの、やたらに英語をあがめる人、英語ができないと生きていけないと思ってゐる人、英語さへできれば未來は薔薇色だと思ってゐる人、英語を第二公用語や社内公用語にすることがグローバル化だと思ってゐる人にはカウンターパンチになっておもしろい本だと思ふ。安くて讀みやすい本だから、目をとおしてみるのも惡くないと思ふ。

徳川幕臣人名辞典

東京堂出版から「徳川幕臣人名辞典」といふ本が出た。稅込12,600圓もする辭典だが、江戶時代好きで旗本好きで資料大好きのわたしはエイヤとばかりに買ってしまった。
版元サイトの紹介文によると
徳川幕府の幕臣を約2000名収録し、詳細な経歴を解説しました。役職上、有能で歴史人名辞典に登場する人物ばかりでなく、人名辞典にほとんど記述されることのない町奉行与力や芸術・学問の分野で活躍した人物も多数収録しました。
といふ內容。與力など御家人クラスといふのは、寬政重修諸家譜などには出てこないし、また、一次資料は編纂時期等のタイミングのため、人物によって寬政譜、寬永諸家系圖傳、柳營補任、德川實紀等、いろいろな史料を參照しなければならないが、この辭典ならば主要な幕臣は大抵のってゐるだらうから、便利さう、と思った次第。そもそもわたしは寬政譜しか持ってゐないし。
ビーケーワンより屆いたので、早速あちこち引いてみる。期待どほり平山子龍とか都甲斧太郎のやうな御家人身分の人物ものってをり、役に立ちさうだ。
ただひとつ氣になったのは、編輯が甘いのではないかといふこと。一番目立つのは卷末付錄の「幕府職制一覧」が目次では752ページになってゐるのに、實際には750ページからの掲載といふ點。
これぐらゐは目立つだけで大したことではないが、ちょっとこれは、と思ったのは「鳥文斎栄之」の項目があって、なぜかさらに「細田時富」の項目があること。いや、「細田時富」を引くと「鳥文斎栄之参照」とかなってゐるのなら普通なのだけれど、「細田時富」の項目にはごく普通の顔をして次のやうに書かれてゐる。
 細田時富 ほそだときとみ(一七五六~一八二九)
 西丸小性組の細田時行の長男として生まれる。民之丞・弥三郎と称した。妻は大岡淡路守忠主の娘。安永元年(一七七二)九月六日、父の死去に伴い家督を相続し、天明元年(一七八一)四月二十一日に御小納戸となり、十二月十六日布衣を許される。三年二月七日より西丸に候し、十二月一八日務を辞して寄合となる。寛政元年(一七八九)八月五日、三十四歳で致仕した。
【典拠・参考文献】『寛政譜』第十五・一〇二頁 (堀)

(ちなみにこれぐらゐのことは「鳥文斎栄之」の項にも書いてある。)
察するに項目ごとに執筆者がちがふので、兩方の項目が立ってしまったのではないだらうか。全體に目を配る編纂者がゐなかった、といふことなのだらう。
それにしても「細田時富」の項目の解說文を讀んでも、これといった特徵もない一幕臣の、ごく平凡な經歷、といふ感じしかしない。せめて後半生を鳥文齋榮之として歌麿と人氣を二分するほどの浮世繪師となったことぐらゐ書いておかないと立項した意味がないと思ふのだけどなあ。
それから大久保忠敎(大久保彥左衞門)の項目がないのも不思議。旗本の中の旗本、幕臣の代表選手みたいな彥左をのせないといふのは項目選定が甘かったとしか思へない。
有用な良い辭典であるだけにかういった點が殘念でならない。
もっともこの手の辭典といふものは最初から完璧を期するのは困難なので、そこは良しとしよう。
それにしてもここ一年、この本のほかにも「公家事典」だの「江戸幕府大事典」だの「皇室事典」だの、歴史關係の高い事典ばかり買ってゐるなあ。

(餘談)ビーケーワンの「徳川幕臣人名辞典」のページを開くと、「この本を見た人は下記の本も見ています」の1ページ目に「〈江戸〉の人と身分 2 村の身分と由緒 」、「開国前夜」、「鬼平の給与明細」、「原色日本島図鑑」がならんでゐる。これ全部儂が買った本ぢゃないか。「この本を見た人」って、儂のことなのね。
あ、「新訂寛政重修諸家譜 別巻1 葬地・寺社名索引」のページも同じだ。とか言ってゐたら「江戸時代の身分願望」のページも買った本ばかりだ。ってか、自分の買った歴史關係の本のページを見ると、のきなみそんな感じになってゐる。ビーケーワンって、やっぱりAmazonとちがってマイナーなんだね。

「監修」するなら目ぐらゐ通せ

「数字でわかるお江戸のくらし」(監修 東京大學史料編纂所教授 山本博文)といふ本を買った。どういふ本かといふと、Amazonの紹介はつぎのとほり。

数字でなるほど! ビジュアルで楽しい!
面白おかしい八百八町の生活

 時間がゆるやかに流れ、人と人とのつながりが濃いのが江戸時代である。
 今では失われた社会に郷愁を抱くためか、江戸ブームと呼ばれる状況がある。江戸の人々の所作を学び、江戸切絵図を片手に現在の東京を散策する人も少なくない。
 本書は、江戸についての文献や史料に基づきながら、『数字』をキーワードとして「江戸時代の庶民の生活から社会まで」を幅広く概観したものである。

・庶民(棒手振り)の一日の収入はいくらぐらいか
・週休5日だった!? 武士の生活とは
・駕籠の初乗りの運賃はいくらだったか
・大奥の維持費は200億円以上!?

…などなどの興味あふれる事柄を、現在の単位・価値などに換算することで、江戸と現代を面白く比較することができるようになっている。
 また簡にして要を得た説明のほか、200点を超える江戸の生活を描写した絵画史料を活用したのも、本書の大きな特徴である。ここに描かれた人びとの姿や風景を丹念に見ていけば、自然と江戸時代の生活へタイムスリップできる。

こんなふうに書いてあるので、粗忽亭は江戸時代に關する數値データをあつめた本だらうと思った。さういふものが一冊にまとまってゐるといふのもハンドブック的で便利でよいかな、と思って買ってみたのだ。
たしかにさういふデータもいろいろあった。だけど、「『数字』をキーワードとして」ってのは、必ずしもさういふ意味ばかりだけではなかったのだ。たとへば御“三”家についての項目がある。あるいは“三”奉行についての項目もある。要するに數字がちょっとでもからめばOK、といふことらしい。しかも奧付と參考資料を見るかぎり、編輯プロダクションが、一般向けの輕い歴史本からまとめたもの、のやうだ。少々期待はずれであった。ネット書店で本を買ふと、かういふ失敗はどうしても避けられない。
さて、そのなかに『悲劇的結末を迎えた「徳川四天王」』といふ項目がある。これがまことにお粗末なものであった。
ちょっと引用してみよう。(ルビは略)

 とくにこのなかでも本多作左衛門忠勝の働きは、後生(ママ)に燦然と輝く華々しいものが多い。生涯57の戦いに赴いて、傷ひとつ負わなかったといわれ、その戦場での鬼神の如き戦いぶりから、忠勝のふたつ名は「鬼作左」。(後略)

本多忠勝の通稱は作左衞門ではなくて平八郎だ。「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭と本多平八」といふことばを知らんのか。作左衞門は、おなじ本多でも本多重次の通稱だ。參河三奉行の一人であったとき、「佛高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と謳はれたのだ。ここからわかると思ふが、「鬼作左」といふのは、むしろその性格を評していったものだ。主君家康に對してさへも、平氣でづけづけと諫言したやうな剛直な人だったらしい。
しかし、ただ剛毅で氣性のはげしいだけの人物ではなかったやうだ。重次關連で一番世に知られてゐるのは、彼が妻にあてた手紙文。曰く「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」。この手紙文や、また、奉行をつとめてゐたことから察するに、才知もあった人なのだらう。

それからこの項目、あとの方にはこのやうなところもある。

 だが、江戸時代になり、家康は彼らに重要なポストを与えたのかというと、実際はそうでもなかった。直政は戦の傷がもとで早死にし、忠次は家康と不仲になって疎遠となり(後略)

えーと、「江戸時代になり」って、酒井忠次は關ヶ原の戰ひの4年も前に死んでゐるんですが。「不仲になって疎遠となり」っていふのは、家康の長子信康が嶽父織田信長から武田勝頼との内通をうたがはれたとき忠次が辯解しなかったために(ばかりでもなからうが)切腹させられた、といふ事件があり、家康がそれを遺憾としてゐたといはれてゐる(異説あり)ことを指してゐるのだらうが、なんにしろ「江戸時代にな」ってからのことではない。
さらにこの項目についてゐた小見出しは「残ったのは2家」となってゐる。直政と忠次をのぞいて2家、ってことなのだらうけれど、「家」單位でみれば、4家とも大名として明治維新をむかへてゐる。殘ったのは2人、ならともかく、2家ではまったくまちがひだ。
こんな初歩的なまちがひが平氣で載ってゐるところをみると、山本教授は監修の名義を貸しただけで、原稿をまったく讀んでゐないものと推察する。もし讀んでゐてこれだとしたら、織豐時代~江戸時代を專門とする歴史學者としては、あまりにはづかしい。監修の名義を貸すのなら貸すで、原稿のチェックぐらゐはしてほしい。御自身で書かれた著書は結構おもしろいのだから。

ところでこの本の別の項目にだが、「食べあわせ」なる表現が出てくる。この編プロの人たちは、歴史知識だけではなく、日本語にも不自由なやうだ。きっと道草を食べたりしてゐる人たちなのだらう。こんな指摘をされて、いまごろ泡を食べてゐたりして。出版不況のあふりを食べたり、詐欺師に一杯食べさせられて倒産したりしないやうに氣をつけてくださいね。

長文雜記

いや、いつも雜記なんですがね。別のタイトルで書き始めたんですが、書いてゐるうちにどんどんちがう方向に走っていったので、意味のないタイトルにしてみました。
さて、本文。
『たぬきちの「リストラなう」日記』といふブログがある。といふか、あった。過去形なのは、一應5月末をもって終了してゐるからだ。ただし、正確に言ふと最終エントリは6月1日の投稿だし、しかも6月2日に追加エントリの投稿があったのだけど(後述)。
このブログは「都内のわりと大手と思はれる出版社」(としか書いてゐないが、あきらかに光文社)ではたらいてゐるたぬきちさんが以前から別のタイトルで書いてゐたものだが、勤務先が3月中旬に希望退職の募集をはじめ、それに應募することにきめてからタイトルを變更して、退職日である5月末日まで限定で自分と勤務先のリストラ關係のことを書いてゐたものだ。
粗忽亭は本といふものが大好きで、ジャンボ寶くじにでもあたったらとっとと仕事をやめて本だけ讀んで暮らしたい(いや本當は音樂も聽きたいしネットものぞきたいので“だけ”といふのは誇張ですが)やうな人間なので、出版社まはりのことなんかについてもなにかと興味がある。
ここ數年は出版不況の聲は耳にたこができるぐらゐ聞こえてくるし、今年はまづまちがひなく「電子出版元年」になるだらうと言はれてゐる。もう出版社も從來のビジネスモデルが通用しなくなってきてゐる。だからこそ光文社でもリストラをやるわけだ。そんな出版社の内側にいる人の生々しい聲が聞けるといふのはなかなかない機會だ。そんなわけでこのブログの存在を知ってから、ずっと讀み續けてきた。
出版社のかかへるいまの問題點の指摘や、將來への提言(といふほどはっきりしたものではないが)などは興味深かった。しかし、讀んでいくうちにもう一つおもしろいところが出てきた。それはコメント欄だ。なにがおもしろいかと言って、それはたぬきちさんの書いてゐる内容(あるいは方向性)とコメント(もちろん一部の、ですが)とのズレがおもしろかったのだ。ああ、俺ってつくづく性格惡いなあ。
たとへば、光文社は希望退職者にとても優遇された條件を用意して、しかもいはゆる肩たたきなどもなく、みづから手をあげる人だけをきちんと會社都合退職としてゐる。たぬきちさんもこの機會にまったくみづからの意志で退職をえらんだのだけど、「安易に退職を受け入れてはだめだ」とか「個人加入できるユニオンに入れ」とかいふ聲があったりした。
まあ、「リストラ」といふタイトルのために心ならずも退職に追ひ込まれる、といふふうに受け取っちゃったのかもしれないけど、きちんと本文を讀めばさういふものではまったくないことがわかると思ふのだけど。
それからこのブログを會社に對する告發だと受け取ってゐる人が多かったのもおもしろかった。たぬきちさんには會社に對するうらみもつらみもなく、感謝と愛情をいだきつつやめていくのだとしか粗忽亭には受け取れなかったのだけど。
コメント欄の風向きがかはってきたのは、たぬきちさんが自分の年收や、今回の早期退職の條件などを書いてから。たぬきちさんはいま四十代なかばで、年收は千數百萬圓、といふところらしい。そのあたりが書かれてから、やたら批判的な、といふよりはヘイトコメントが多くなってきた。いやー、金錢に關する嫉妬ってコワいねー。それに價するほどの仕事ぢゃないだらうとか、それにくらべて書店や、印刷業や、あるいは著者は安すぎるとか。多くの場合は自分とくらべてたぬきちさんの惠まれぶりが氣に入らない樣子だった。
いや、これはたぬきちさんを批判したってしかたないだらう。そりゃたしかにこの年收は決して低い額ではない。でも、たぬきちさんは高額の給料をはらう光文社に入社を希望して採用されたのであり、粗忽亭をふくめてさうぢゃない人は光文社に入社を希望しなかったか、あるいは希望しても採用されなかったのだから、それをねたんでもしかたがない。
はなしはかわるけど、國立大學の授業料はむかしはとても安かった。學生が數日アルバイトすればかせげてしまふ程度の額だったりした。いまは高くなったとはいへ、それでも私立にくらべるとまだ安い。それでゐて國立大學の方が教育條件は良かったりする。教員一人あたりの學生數とか。しかも、たとへば東京大學なんかだと、その安い學費でこの分野では日本一、どころか世界一、なんて教員の指導を受けられたりする。
これについて、「俺は私立の××大學生だが、講義はマスプロだし、教授にろくな人材もいない。それなのに授業料は東大の方が安い。東大生はケシカラン。」と言ってもしかたがない。だって、その人は東大の入試を受けなかったか、受けても合格しなかったのだから。それとおなじことだと思ふ。
それよりもなによりも光文社の給與水準に驚いてゐた人が多いのが粗忽亭には意外だった。だって大手の、あるいは歴史のある出版社の給料が高いのは周知の事實だと思ってゐたから。それが善い惡いではなく。私などは光文社クラスなら四十代で二千萬圓ぐらゐはあるかと思ってゐたので、むしろ意外に少ないのね、と思ったぐらゐだ。
それで、そのへんが一段落したと思ったら、今度はたぬきちさんが會社のことを書いてゐるのは守祕義務違反だのなんだのと騷ぎ立てる人がちらほら。でも、さういふコメントを書く人が、具體的にどこが守祕義務違反だと指摘したものは見かけなかった。そもそも光文社の希望退職募集は對外的にも發表されてゐるのだし、それ以外の記事内容も「業務上知り得た祕密」に該當すると思はれるものは無いと思ふのだけど。勤務先のことをいろいろ書くと氣まづい、といふのはあるだらうけど、氣まづいのと守祕義務違反とはちがふ。第一、たぬきちさんの同僚の多くが、すなはち會社側もこのブログの存在を知ってゐるのだから、本當に「守祕義務違反」に相當することがあれば會社の方がアクションを起こすはずであり、他人がとやかく言ひ立てることではない。粗忽亭はこのやうになんでもかんでも「自肅」させようとする風潮が大きらいだ。かういふのは一種の檢閲みたいなものだ。まあ亞檢閲とでも言はうか。
日本の戰前の檢閲は國家が強權をもっておこなったものだが、その分はっきりしてゐた。基本的に軍や天皇に關すること、共産主義思想をほめたたえるやうなことはアブナイけど、それ以外はたいていなにも言はれない。それにくらべて現代の亞檢閲は國家でもない、強權も持たない一個人や民間團體などがそれとなく壓力をかけてくることが多い。これは著作權侵害ぢゃないかとか、名譽毀損になるかもしれませんよとか。とても陰濕な感じがある。
新聞雜誌の記事だらうが個人ブログだらうが、さういふリスクは筆者(新聞雜誌記事および書籍等は新聞社、出版社等も)が覺悟して引き受ければよい話であって、他人がとやかく言ふものではない。その記事によってなんらかの權利が侵害されたとか、自分の名譽が毀損されたとか思った人がいたら本人が筆者や出版社に抗議したり交渉したり、それでもらちがあかなかったら、訴訟を起こすなりすればよいだけのはなしだ。
それかあらぬかブログなどネット上の個人的な文章でもやたら伏字を多用する人がいるのも見苦しい。伏字などといふものは權力側から強制された場合、あるいはその介入を未然にふせぐためにやむなくおこなうものだ。それも戰前のそのての出版物などを見たらわかるとほり、數ページにわたってほとんど全文とか、段落丸ごととか、肝になることばを片っ端にとか、とにかく、少なくとも豫備知識なしではなんのことかわからないぐらゐに削ってしまふものだ。ミッキー○ウスとかマイ○ロソフトとかのやうにだれでもわかるやうな伏字なんか見苦しいだけでなんの益もない。まあ半分洒落でやってゐる場合もあるのだらうが、おもしろいとも思へない。このてので感心したのはセ○ラ○ム○ンといふ伏字ぐらゐだ。一文字おきに伏字にしただけのやうに見えて、伏せた部分は全部長音記號だもんね。これを見たときは笑ったなあ。
なんかはなしがあっちこっちに飛んでゐるが、もとにもどして。「リストラなう」のはなし。
とにかくさういふ批判的なコメントもほとんどなくなってきて、最終的には好意的なものがほとんどにおちついてきた。そんな中、前述のとほり、6月1日の記事をもって最終回をむかへた。はずだった。
ところが6月2日に『【お知らせ】「リストラなう」にコメントを寄せてくださったみなさまへ【とても重要】』といふエントリが掲載された。内容は(1)「リストラなう」が新潮社から書籍化される。 (2)その際にコメントの一部も收録したい。 (3)コメント不掲載希望の人は指定の方法(結構面倒)で申し出てくれ。 といふやうなこと。
いやー、さうするとそのエントリにコメントがつくわつくわ。ほとんどが批判コメント。
ブログが出版されるといふことそのものに對して怒ってゐる人。すべてが企劃だったのか、とか言ってゐる人。そしてもっとも多いのが一件一件承諾をとることなく、不許可の人だけ申し出よといふ方法に對する文句。法的にあぶないよ、といふ人も。いやしかし版元は新潮社だよ。あの『電車男』の。『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』の。そっち方面の經驗は積んでゐるし、著作權に強い顧問辯護士もかかへてゐるはず。それ以前に法務部門もしっかりしてゐるよ。でなければ週刊新潮なんかこわくて出せるはずがない。たぬきちさん個人に辯護士をつけるやうすすめる人もいたけど、そんなことよっぽど賣れっ子の作家でもないかぎりやりませんよ。そんなことしてゐたら印税なんか全部ふっとんぢゃふ。ましてや職業作家ぢゃない(継續して文章書きで生計を立てるわけではない)人がそんなことしませんって。出版物の内容(著作權關係であれ、名譽毀損等であれ)で問題があるときは著者と發行者との兩者が責任を問はれるのが普通だから、個人でいちいち心配して對策をとってもしかたありません。そのための出版社の法務部門であり、顧問辯護士なんですから。
批判してゐる人は、かつてヘイトコメントをつけた人、自分のコメントが利用されるのがおもしろくない人、このブログが出版されてたぬきちさんや新潮社の利益になるのがおもしろくない人、等々いろいろあるやうだが。
それにしてもネット環境さへあれば世界中どこからでもタダで讀めるブログにコメントを載せておいて、ときには匿名で口汚い批判を書いておいて、人の目にふれるハードルがはるかに高い書籍に載せられるのはいや、といふメンタリティーが理解できない。そもそも一度書いて發表(ブログへのコメントもそれに該當する)してしまった文章といふものはある意味筆者の手をはなれてしまふ。もちろん著作權がないといふ意味ではないよ。綸言汗の如しではないけれど、取り戻すことはできないのだし、それ相應の責任が付隨する、といふことだ。それをある出版物で補助的につかわれても文句をいう筋合ひではない、といふのが(法律論とは別の)粗忽亭の感覺なんだがなあ。
上記の『電車男』や『ブラック會社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』や『世界極上ホテル術』なんかとちがって著者本人の文章がメインで、コメントは添へ物にすぎないのだし。書いて發表したものに對して、それが自分の意圖せざる利用だといへど、もう書いてしまったものはしかたがない、と思ふのだけどね。
そんなわけで粗忽亭があちこちに書き散らしてゐるコメント(「リストラなう」には書いてゐません)がさういふものに收録されるやうなことがあっても一切文句は言ひません。また、粗忽亭日乘へのコメントも、書籍化の際には收録されてしまふかもしれないと覺悟のうえでお寄せください。って、そんな可能性は一恆河沙に一つもありませんが。あ、だれですか、一不可説不可説轉に一つもないと言ってゐる人は。

心配したとほりになってきた

所謂兒童ポルノ禁止法の改正案が衆議院で審議されてゐますね。その審議の中でこんなやり取りがあったさうですよ(リンク先參照)。
「10年前、20年前、30年前とかに製造・販売されて手元にあるものを、そんなものをみんな調べるんですか?」と問いただした枝野議員に、法案提出者である自民党の葉梨康弘議員は、こう答弁した。
「児童ポルノかも分からないなという意識のあるものについては、やはり廃棄をしていただくのが当たり前だと思います」

ださうです。
つまり、かの宮沢りえさんの「Santa Fe」だって持ってゐるだけで犯罪になってしまふ可能性があるといふことです。
みなさん、「Santa Fe」ですよ、「Santa Fe」。あの一大社會現象になった、150萬部が賣れた「Santa Fe」ですよ。日本中いたるところにありふれてゐるあの「Santa Fe」ですよ。アイドル好きのあなたも、寫眞好きのあなたも、ブームにはとりあへず乘るミーハーのあなたも持ってゐるんぢゃありませんか。もう18年もまへに出た本ですから、買ったには買ったけど、どこにしまひこんだかわからなくなってゐる、といふかたも多いと思ひます。
そんなみなさんもこの改正案が通ったら、1年以内にさがし出して捨てないと「兒童ポルノ所持者」といふ忌まはしい汚名のもと、逮捕されてしまふかもしれないのですよ。
わたしは以前のエントリーで、たとへば「カメラ毎日」のバックナンバーを持ってゐるだけでも逮捕されかねない、と書きました。それが現實化してしまひかねないのですよ。
いや、さすがにわたしも「Santa Fe」まで違法になるとは思ひませんでした。現實はわたしの心配を上回ってしまひさうです。
法案提出者である自民黨の葉梨康弘議員は
廃棄までに1年の猶予があり、有名なものなら政府が(違法になるかどうかを)調べるとも述べた
さうですが、調査對象になるものなんてごく一部でせう。それこそ「Santa Fe」だとか、篠山紀信さんの「少女神話」だとか。むかしアラーキーが大量に少女寫眞を撮ってゐたことがありましたね。あれなんかどうなるんでせうね。「Santa Fe」がだめなら、沢渡朔さんの「少女アリス」なんて絶對だめでせうね。藝術だって言っても認めてくれないでせう。
澁澤龍彦先生愛藏の古寫眞「交叉する少女」(でしたっけ)なんかまちがいなくアウトでせうね。さういへば、むかし澁澤龍彦展でカタログがはりに賣ってゐた季刊みづゑ編輯部「澁澤龍彦をもとめて」にこの寫眞、收録されてゐたやうな氣が。こんな本、どこに行ったかわからないよ。この改正案が通ったら、わたしも「Santa Fe」御所持の皆樣方や白田秀彰先生ともども犯罪者の仲間入りですね。とほほほほ。

フィクションかノンフィクションかはっきりさせといてください

まづはリンク先を讀んでみてください。朝日新聞の讀書面にのった野口武彦著「幕末不戦派軍記」の書評です。評者は香山リカさん。
これを讀んで、どういふ構成の本だと思ひました?私は「お気楽な幕臣4人組」の日記を、解説をまじへて紹介する本だと思ひました。さう、丁度「元禄御畳奉行の日記」のやうな。江戸時代大好き、史料大好きな私は早速買ってみました。
目次にはかうあります。「発端 長州戦争の巻」「彰義隊の巻」「日光の巻」「奥羽朝廷の巻」「蝦夷共和国の巻」「あとがき」。
そのあとがきの冒頭。

 この一冊で活躍する(中略)四人組は、幕末の史料から抜け出してきて、フィクションの世界に漂い出た男たちである。

ええええええー!フィクションだったんですか!
あとの方にこの本の「成り立ちと構成」が書いてあるので、とびとびにひきます。

 右の『在京在阪中日記』にもとづいて最初に書いた歴史ドキュメンタリーが「幕末の遊兵隊」(『幕末気分』所収)である。(中略)この日記は将軍(引用者註 十四代将軍家茂)薨去のあたりで尻切れトンボに終っている。こんな連中が戦場に送り出されたらどうなるか。その後の運命を断片的な史料と想像力で補い、フィクションの形で鳥羽伏見の戦いに参加させたのが「幕末不戦派軍記」(『幕末伝説』所収)である。(中略)
 その続編がどうしても書きたくなって、四人を次々と維新戦乱の現場に投入した。(中略)
 単行本にまとめるに当たって、出発点になった「幕末の遊兵隊」をノベライズし、「発端 長州戦争の巻」と題して巻頭に据えた。『在京在阪中日記』では事実不明だが、四人組が長州戦争の前線に行ったという設定から物語が始発する。全五章はすべて史実を材料にしたフィクションである。(後略)

つまり、一種の歴史小説、てことですね。しかも、その日記がベースになってゐるのはせいぜい「発端 長州戦争の巻」の中ごろまで、といふことになりませうか。
小説に興味のない私としては「だったら買はなかったのになあ。」と言はざるをえません。香山さん、フィクションをノンフィクション、あるいはドキュメントのやうに紹介するのはやめてください。
あ、あわててつけくはへますが、この本自體は「史実を材料にし」てゐますし、多くの史料が出典を明記したうへで引用されてゐますので、けっして荒唐無稽なものではありません。幕末の一斷面を、その雰圍氣を知る、といふ面では有益な本だと思ひます。ただ私のニーズとはちがってゐた、といふだけで。
ついでなんで、海舟ファンの私から香山さんに憎まれ口を一つ。「勝海舟に至っては口も人もなかなか悪かった」なんて常識ぢゃありませんか。それは幕末も維新後もかはりませんよ。德川家達(十六代)を「三位」と呼び捨てにしてゐたやうな人ですよ。そもそも人がわるくなければ、幕末のあの状況の中で薩長とわたりあって德川家と慶喜をまもりぬくことができるわけありませんよ。海舟の魅力はその人のわるさにもあるんですよ。
といふわけで、わるい本ぢゃないのに「だまされたー」といふ氣になってしまった微妙な買ひ物でした。

なんだか悲しいなあ

高島俊男先生の『天下之記者―「奇人」山田一郎とその時代』を買った。東京大學を卒業して文學士になり、東京專門學校(いまの早稻田大學)の創立に參畫し、「政治の早稻田」をつくりながら、竒人としての生涯をまったうした男。東大の同級生たちはみな出世し、高給取りになり、お屋敷に住んで女中や書生を大勢かかへるやうになってゐるのに、家もなく、全國を放浪してフリーの記者として一生を終へた、東大卒で一番出世しなかった男の哀しき一代記だ。なほ、ここでいふ東京大學とは新制の東京大學ではもちろんない。東京大學になるまへの東京帝國大學になるまへの帝國大學になるまへの東京大學だ。あまり知られてゐないが、この學校は明治10年4月から明治19年3月まで「東京大學」といふ名前だったのだ。
いまこの本をぢっくり讀んでゐるひまはちょっとないのだけれど、それでも氣になるのでパラパラとめくってゐると、いろいろおもしろいことが書いてある。たとへば「文學士」について。これはもちろん山田一郞が文學部を卒業したためだが、いまの「文學士」(平成3年7月1日以降授與分は「學士(文學)」のごとくになってゐるさうだが)とは相當ちがふ。當時の文學部は事實上政治經濟學部であった、といふやうなことが書いてある。
また、學士の地位の高さも今とはくらべものにならない。なにしろ明治30年まで日本には大學はひとつしかなかったのだし、またその規摸も「東京大學」の時代は寺子屋に毛がはえた程度の大きさでしかない。そんなところを卒業した人といふのはまさにエリート中のエリートだったのだ。
さて、はなしはかはるが、私は以前からディプロマミル(ディグリーミル)に關心をもってゐる。え、ディプロマミルなんて聞いたことない?「UNIVERSITY DIPLOMA」なんて件名の英文SPAMがとどいたことありません?あれがさうです。ひとことで言ふとカネで學位(らしきもの)を賣るインチキ大學のことです。
そんなわけで「学歴汚染(ディプロマミル・ディグリーミル=米国型学位商法による被害、弊害)」といふブログをいつも讀んでゐるのだが、その最新エントリ「大学教授の博士号取得率とPh.D取得率の違いの意味:東大経済学部vs中京大学経済学部」を讀んでちょっと考へてしまった。これ、つきつめて言へばハーバード大學やスタンフォード大學をはじめ、合衆國などの一流大學のPh.Dにくらべれば、東大だらうが京大だらうが國内の大學の博士號は二流、といふことになってしまふ。
私は大學敎育とかアカデミズムとかとはかかはりのない人間なので、それが正しいのかどうかはわからない。しかし、東大の敎員の多くが國内の大學の博士號ではなく、海外のPh.Dをもってゐる、といふのは事實だらう。だとすると、東大の博士號取得者であってももはやエリート中のエリートとは呼びがたい、といふことになってしまふ。明治前期の學士にくらべて國内博士號の價値の薄さよ。海外のPh.Dよりはるかにおとるやうに言はれてしまふなんて、なんか悲しいなあ。

大わらひした誤植

今日の朝刊にのってゐた「SAPIO」の廣告から。

<引用ここから>
SIMULATION REPORT「1バレル=120円」「1ドル=80円」時代への備えは万全か 世界を揺るがす「石油と金(きん)の経済学」
<引用ここまで>

どんな安い原油やねん!

市議會議員選擧と國會議員選擧のちがひ

2週間ほどまえに八戸市の藤川優里市議が美人すぎると話題になりました。あんまり話題になりすぎて當人のサイトがサーバーダウンしたりしたとかいふ話もありました。ええ、もちろん私も見に行きましたとも。美女と美少女と眼鏡っ娘がきらいな男子なんかゐません
たしかに女優なみの美人で、しかもそれを十分意識したサイトづくり。バナーなど、各種の寫眞がアイドル寫眞みたいで見どころ(笑ひどころ?)いっぱいでした。
さて、昨日發賣された週刊ポストに藤川市議がらみの記事がのってゐました。コンビニでざっと立ち讀みしたんですが、はやくも自民黨から國政選擧に擁立しようとのうごきもあるとのこと。まあ、週刊誌の記事ですから、どこまで本當かはわかりませんが、たしかに話題性はたっぷり、市議選でも2位にほとんどダブルスコアでのトップ當選ですからね。
しかし、國政選擧に出ても、さう簡單に當選できるかどうかはわからないと思ひます。といふのは、たとへば私が八戸市民でしたら、市議選ならほぼ確實に藤川さんに投票してゐるんぢゃないかと思ふんですよ。だって市議選って、政令指定都市とかは別にして、普通全市1區でせう。この昨年4月の八戸市議選でも定數36名に47名が立候補したさうです。47人の名前がずらーとならぶ中で、この中から一人市議にふさはしいのをえらべ、といはれたってえらびやうがない。それぢゃあ、とりあへず美人さんに入れようかと思ふのは人情といふものです。その人がよほど竒矯な公約をかかげてゐるとか、ヘンなうはさがあるとかでないかぎり。
でも國政選擧だとさうはいかない。數人の候補の中からじっくりえらべます。主義主張や公約や所屬政黨を勘案して。さうなると、話題性や美人であることのアドバンテージはあるでせうが、市議選のやうに絶對有利、といふやうなことはないと思ひます。
え、參議院の比例代表にたてれば市議選と似たやうなもの?うーん、たしかにさうですが。つぎの參議院選擧は2年半も先ですよ。衆議院總選擧なら、來年9月までにはかならずあるけど。

盜人猛々しい

例の唐沢(盜用)俊一さんの盜用騷動について、「社会派くんがゆく!復活編」に「『新・UFO入門』事件顛末記」といふタイトルで公式最終聲明?がのったやうです。内容については
藤岡真さんの「机上の彷徨」(時間がたつとリンク先がかはります。その場合は「次へ」をクリックして探してください。)
2ちゃんねるへの轉載その1 同その2(遠からず過去スレに入ってしまひます。)
をご參照ください。
まあ、一言で言って、盜人猛々しい、ですね。泥棒が被害者の被害の主張をいちゃもん呼ばはりしてゐるとしか言ひやうがない。知らない人がこれだけ讀んだら、漫棚通信さん(被害者)が法外な慰藉料を恐喝した、と解釋してしまふでせう。漫棚さんは慰藉料はいらない、と言ったのに。
唐沢(盜用)さんが書いてゐる經緯も多くのうそがふくまれてゐる。いちいち指摘しないけど、興味のある方は「ネット上の文章の盗用問題:『新・UFO入門 日本人は、なぜUFOを見なくなったのか』(唐沢俊一著)を巡って」「唐沢俊一 まとめwiki」「漫棚通信ブログ版 これは盗作とちゃうんかいっ・決裂篇」等をお讀みください。
ほかにも唐沢(盜用)さんの一行知識のいいかげんさも次々檢證されてゐます。(「トンデモない一行知識の世界」參照)
このほかにもパクリ疑惑がいっぱい。もう、物書きとしての矜持とかさういふものは一切ないんでせうね。
一時期とはいへ、かういふ人の讀者であったことがはづかしい。自分の不明をはぢるばかりだ。
ねえ、唐沢(盜用)さん、もうおやめなさいよ。見てゐるこっちがつらくなりますよ。私も讀者だったんだしさ。あなたのひねくれた(これはほめ言葉)ものの見方、おもしろいものを見つける嗅覺までは否定しませんから。だからいままでのうそやはったりや盜用を全部懺悔して出なほしたらどうですか。このままだと本當にだれからも相手にされなくなってしまひますよ。

附記
漫棚通信さんからの反論、といふか、批判といふかが出されてゐます。さすがは御當人、わかりやすい内容になってゐますので、あはせてお讀みください。
おまけに漫棚さん以上に唐沢(盜用)さんからパクられつづけてきた知泉さんの怒りの文章

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