カテゴリー「学問・資格」の記事

大坂城代と京都所司代

山内昌之東京大學大學院綜合文化研究科教授が毎週木曜日に産經新聞に連載してゐる【幕末から学ぶ現在(いま)】、本日掲載の第133囘は「松平定敬(上)」。そのなかにつぎの記述がある。

民生の権限が京都町奉行へ委譲された後、所司代は大坂城代を経て幕府老中に上りつめる譜代大名のキャリアパスの一部となる。

この記述はまちがひである。これだと大坂城代は京都所司代より上席であり、所司代經驗者が大坂城代に榮轉することが多かったといふことになるが、そんな事實はない。
京都所司代は江戸時代初期には幕府でも最重要の職務であった。それといふのも、所司代には朝廷對策、西國大名の監視とならんで大坂城に健在であった豐臣氏對策の最前線といふ職責があったからだ。當時の所司代板倉勝重は、老中と同等の權威を有してゐたと見てよい。それは次代の所司代で勝重の長男である重宗も同樣だ。
勝重の孫にあたる板倉重矩(重宗の甥)は老中から京都所司代に轉任し、その後老中に復してゐる。このあたりの事情をみると、當時は老中と所司代に明確な上下關係はなかったと考へてよからう。
しかし時代が進み、江戸幕府の職制がかたまってくるにつれ、京都所司代は老中の次位と位置づけられていったやうだ。だが、官位は老中と同等の從四位下侍從であり、從四位下には敍されても侍從にはならない大坂城代よりもあきらかに上席である。
いや、そんなことよりも、京都所司代經驗者56人中、その後に大坂城代になったものは一人もゐないといふ事實が「大坂城代を経て」が誤りであることを示してゐる。逆に大坂城代から京都所司代になったものは70人中26人。
なほ、所司代から老中になったものは、56代中、先の板倉重矩をふくめて35人もゐる(途中、西丸老中・溜詰格等を經たものをふくむ)。
すなはち大坂城代→京都所司代→老中といふのが典型的な昇進コースだったのだ。
山内教授はWikipediaによると「専攻は近代イスラム・中央アジア史と国際関係史」とのことで、國史學者ではないので、このまちがひはそれほど責めるにはあたいしない。(でもなぜ近代イスラム・中央アジア史家が幕末のことを新聞連載してゐるんだらう。)實は笹間良彦博士の「江戸幕府役職集成」にこれとおなじまちがひ(所司代は大坂城代を經て幕府老中に上りつめる云々)がある。おそらく山内教授は同書を參考にしたのだらう。しかし笹間博士は國史學者(ただし專門は武具・甲冑の研究)であるので、このまちがひは問題だ。しかも「江戸幕府役職集成」といふリファレンスに使用される本での誤りは罪が重い。
笹間博士といへば、「好色艶語辞典 性語類聚抄」でもビニール本の語釋をまちがへて書いてゐたりする。あの時代に生きてゐて、少なくともさういふものに興味を持ってゐた人間にとってはまちがひやうがないと思ふのだが、なぜか勘ちがひしてゐる。思ひこみのはげしい人だったのかもしれない。

(文中の昇進者數は粗忽亭調べ。數えまちがひがありましたら御容赦ください。)

歷史常識のない「歴史研究家」

朝日新聞(東京本社版)の6月16日付夕刊揭載の「はみ出し歴史ファイル」は『坂上田村麻呂 蝦夷の首領、助命はならず』といふ記事。執筆者は「歴史研究家・野呂肖生」。
この人は以前にも姓と名字とを混同してゐたり、則天文字は漢字ではないと書いたりしてゐるのだが、今回もひどい。書き出し早々

 8世紀の末、桓武天皇は平安京の造営につとめつつ、東北の蝦夷の征討に力を入れた。その立役者が初の征夷大将軍の坂上田村麻呂だ。(ルビ省略)

ときた。これって、自稱歷史好きの知ったかくんのやる典型的なまちがいの一つですよね。
史料にのこるかぎりでの征夷大將軍の初見は大伴弟麻呂。坂上田村麻呂は弟麻呂のもとで副將軍をつとめ、その後、征夷大將軍になってゐる。坂上田村麻呂は「初の征夷大將軍」ではない。
なほ、弟麻呂以前にも鎭東將軍(巨勢麻呂)、征夷將軍(多治比縣守)、征東將軍(大伴家持)、征東大將軍(紀古佐美)の記錄がある。これらの官職も基本的には征夷大將軍と同一視されるものだ。
姓と名字のちがいを知らず、則天文字を漢字ではないといひ、坂上田村麻呂を初の征夷大將軍といふ。これではとても「歴史研究家」の名に價しない。
ちょとしらべてみたら、この人、もと某高校の敎諭で、某大學でも講師(おそらく非常勤)をつとめ、歷史敎科書の版元として知られる山川出版社などからも著書を出してゐるやうだが、それにしては歷史常識が缺如してゐる。朝日新聞も「歴史研究家」の肩書きを盲信せずに、すこしはチェックしたらどうだらうか。あれだけの大組織なのだから、この程度の歷史常識のある記者もいるだらうに。

「監修」するなら目ぐらゐ通せ

「数字でわかるお江戸のくらし」(監修 東京大學史料編纂所教授 山本博文)といふ本を買った。どういふ本かといふと、Amazonの紹介はつぎのとほり。

数字でなるほど! ビジュアルで楽しい!
面白おかしい八百八町の生活

 時間がゆるやかに流れ、人と人とのつながりが濃いのが江戸時代である。
 今では失われた社会に郷愁を抱くためか、江戸ブームと呼ばれる状況がある。江戸の人々の所作を学び、江戸切絵図を片手に現在の東京を散策する人も少なくない。
 本書は、江戸についての文献や史料に基づきながら、『数字』をキーワードとして「江戸時代の庶民の生活から社会まで」を幅広く概観したものである。

・庶民(棒手振り)の一日の収入はいくらぐらいか
・週休5日だった!? 武士の生活とは
・駕籠の初乗りの運賃はいくらだったか
・大奥の維持費は200億円以上!?

…などなどの興味あふれる事柄を、現在の単位・価値などに換算することで、江戸と現代を面白く比較することができるようになっている。
 また簡にして要を得た説明のほか、200点を超える江戸の生活を描写した絵画史料を活用したのも、本書の大きな特徴である。ここに描かれた人びとの姿や風景を丹念に見ていけば、自然と江戸時代の生活へタイムスリップできる。

こんなふうに書いてあるので、粗忽亭は江戸時代に關する數値データをあつめた本だらうと思った。さういふものが一冊にまとまってゐるといふのもハンドブック的で便利でよいかな、と思って買ってみたのだ。
たしかにさういふデータもいろいろあった。だけど、「『数字』をキーワードとして」ってのは、必ずしもさういふ意味ばかりだけではなかったのだ。たとへば御“三”家についての項目がある。あるいは“三”奉行についての項目もある。要するに數字がちょっとでもからめばOK、といふことらしい。しかも奧付と參考資料を見るかぎり、編輯プロダクションが、一般向けの輕い歴史本からまとめたもの、のやうだ。少々期待はずれであった。ネット書店で本を買ふと、かういふ失敗はどうしても避けられない。
さて、そのなかに『悲劇的結末を迎えた「徳川四天王」』といふ項目がある。これがまことにお粗末なものであった。
ちょっと引用してみよう。(ルビは略)

 とくにこのなかでも本多作左衛門忠勝の働きは、後生(ママ)に燦然と輝く華々しいものが多い。生涯57の戦いに赴いて、傷ひとつ負わなかったといわれ、その戦場での鬼神の如き戦いぶりから、忠勝のふたつ名は「鬼作左」。(後略)

本多忠勝の通稱は作左衞門ではなくて平八郎だ。「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭と本多平八」といふことばを知らんのか。作左衞門は、おなじ本多でも本多重次の通稱だ。參河三奉行の一人であったとき、「佛高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と謳はれたのだ。ここからわかると思ふが、「鬼作左」といふのは、むしろその性格を評していったものだ。主君家康に對してさへも、平氣でづけづけと諫言したやうな剛直な人だったらしい。
しかし、ただ剛毅で氣性のはげしいだけの人物ではなかったやうだ。重次關連で一番世に知られてゐるのは、彼が妻にあてた手紙文。曰く「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」。この手紙文や、また、奉行をつとめてゐたことから察するに、才知もあった人なのだらう。

それからこの項目、あとの方にはこのやうなところもある。

 だが、江戸時代になり、家康は彼らに重要なポストを与えたのかというと、実際はそうでもなかった。直政は戦の傷がもとで早死にし、忠次は家康と不仲になって疎遠となり(後略)

えーと、「江戸時代になり」って、酒井忠次は關ヶ原の戰ひの4年も前に死んでゐるんですが。「不仲になって疎遠となり」っていふのは、家康の長子信康が嶽父織田信長から武田勝頼との内通をうたがはれたとき忠次が辯解しなかったために(ばかりでもなからうが)切腹させられた、といふ事件があり、家康がそれを遺憾としてゐたといはれてゐる(異説あり)ことを指してゐるのだらうが、なんにしろ「江戸時代にな」ってからのことではない。
さらにこの項目についてゐた小見出しは「残ったのは2家」となってゐる。直政と忠次をのぞいて2家、ってことなのだらうけれど、「家」單位でみれば、4家とも大名として明治維新をむかへてゐる。殘ったのは2人、ならともかく、2家ではまったくまちがひだ。
こんな初歩的なまちがひが平氣で載ってゐるところをみると、山本教授は監修の名義を貸しただけで、原稿をまったく讀んでゐないものと推察する。もし讀んでゐてこれだとしたら、織豐時代~江戸時代を專門とする歴史學者としては、あまりにはづかしい。監修の名義を貸すのなら貸すで、原稿のチェックぐらゐはしてほしい。御自身で書かれた著書は結構おもしろいのだから。

ところでこの本の別の項目にだが、「食べあわせ」なる表現が出てくる。この編プロの人たちは、歴史知識だけではなく、日本語にも不自由なやうだ。きっと道草を食べたりしてゐる人たちなのだらう。こんな指摘をされて、いまごろ泡を食べてゐたりして。出版不況のあふりを食べたり、詐欺師に一杯食べさせられて倒産したりしないやうに氣をつけてくださいね。

ツンデレももはや學術研究對象

土曜ことばの会」といふ言語學研究會があるさうです。詳細はリンク先を。
その次囘(10月11日)の發表會では「役割語としてのツンデレ表現―役割表現研究の可能性―」 といふ發表がおこなはれるとのこと。ツンデレももはや立派な學術研究對象なんですね。發表者は粗忽亭の大學漫研の先輩です。なほ、

第2弾、「ツンデレ表現の待遇性」も執筆中です。

ださうです。
ちなみに、發表者は甲南女子大学文学部日本語日本文化学科の日本語學の教授ですので、岡田斗司夫さんの「オタク文化論」なんかとは相當毛色のちがふものだと思ひます。多分。

姓と名字の混同

5日(土曜日)付けの朝日新聞夕刊「Be evening」内のコラム「はみ出し歴史ファイル」。筆者は「歴史研究家・野呂肖生」。『豊臣秀吉 「天下人」の自負』といふサブタイトルの記事より。

(引用ここから)
秀吉は、猿や日吉といわれた幼少のころから、出世に応じて名を変えた。木下藤吉郎から羽柴秀吉、次いで信長の後継者を自認して平秀吉。さらに藤原秀吉として関白と太政大臣、最後は天皇から豊臣の姓を賜った。
(引用ここまで)

この人、姓(氏)と名字を混同してゐますね。
秀吉は名字は
なし(おそらく)→木下→羽柴
と變へてゐるのであり、
姓は
なし(おそらく)→平→藤原→豐臣
と變へてゐるのです。
また、姓を平としたのは信長在世中からだし、太政大臣になったのは豐臣姓を賜ったのちです。だから「藤原秀吉として關白と太政大臣」といふのもまちがひ。平姓を稱したのも信長の後繼者を自認したためではなく、單に主君にあやかった(まねをした)だけでせう。信長が生きてゐるうちから「後繼者を自認して」ゐたら、それこそ謀反人です。
なほ、念のために言っておきますが、姓と名字は並存するものです。晩年の秀吉は姓は豐臣、名字は羽柴、であったとかんがへるのが妥當でせう。仰々しく言ふと「羽柴太閤豐臣秀吉」(はしばたいかうとよとみのひでよし)ってな感じでせうか。
一般の人ならば仕方ありませんが、歴史研究家を稱する人が姓と名字の區別がつかないといふのはお粗末にすぎます。

なんだか悲しいなあ

高島俊男先生の『天下之記者―「奇人」山田一郎とその時代』を買った。東京大學を卒業して文學士になり、東京專門學校(いまの早稻田大學)の創立に參畫し、「政治の早稻田」をつくりながら、竒人としての生涯をまったうした男。東大の同級生たちはみな出世し、高給取りになり、お屋敷に住んで女中や書生を大勢かかへるやうになってゐるのに、家もなく、全國を放浪してフリーの記者として一生を終へた、東大卒で一番出世しなかった男の哀しき一代記だ。なほ、ここでいふ東京大學とは新制の東京大學ではもちろんない。東京大學になるまへの東京帝國大學になるまへの帝國大學になるまへの東京大學だ。あまり知られてゐないが、この學校は明治10年4月から明治19年3月まで「東京大學」といふ名前だったのだ。
いまこの本をぢっくり讀んでゐるひまはちょっとないのだけれど、それでも氣になるのでパラパラとめくってゐると、いろいろおもしろいことが書いてある。たとへば「文學士」について。これはもちろん山田一郞が文學部を卒業したためだが、いまの「文學士」(平成3年7月1日以降授與分は「學士(文學)」のごとくになってゐるさうだが)とは相當ちがふ。當時の文學部は事實上政治經濟學部であった、といふやうなことが書いてある。
また、學士の地位の高さも今とはくらべものにならない。なにしろ明治30年まで日本には大學はひとつしかなかったのだし、またその規摸も「東京大學」の時代は寺子屋に毛がはえた程度の大きさでしかない。そんなところを卒業した人といふのはまさにエリート中のエリートだったのだ。
さて、はなしはかはるが、私は以前からディプロマミル(ディグリーミル)に關心をもってゐる。え、ディプロマミルなんて聞いたことない?「UNIVERSITY DIPLOMA」なんて件名の英文SPAMがとどいたことありません?あれがさうです。ひとことで言ふとカネで學位(らしきもの)を賣るインチキ大學のことです。
そんなわけで「学歴汚染(ディプロマミル・ディグリーミル=米国型学位商法による被害、弊害)」といふブログをいつも讀んでゐるのだが、その最新エントリ「大学教授の博士号取得率とPh.D取得率の違いの意味:東大経済学部vs中京大学経済学部」を讀んでちょっと考へてしまった。これ、つきつめて言へばハーバード大學やスタンフォード大學をはじめ、合衆國などの一流大學のPh.Dにくらべれば、東大だらうが京大だらうが國内の大學の博士號は二流、といふことになってしまふ。
私は大學敎育とかアカデミズムとかとはかかはりのない人間なので、それが正しいのかどうかはわからない。しかし、東大の敎員の多くが國内の大學の博士號ではなく、海外のPh.Dをもってゐる、といふのは事實だらう。だとすると、東大の博士號取得者であってももはやエリート中のエリートとは呼びがたい、といふことになってしまふ。明治前期の學士にくらべて國内博士號の價値の薄さよ。海外のPh.Dよりはるかにおとるやうに言はれてしまふなんて、なんか悲しいなあ。

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