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弓取り式「専門の力士」って?

24日附産經新聞の【おやこ新聞】「まめちしき」は“「弓取り式」って?”といふお題。曰く

結びの一番が終わった後、その勝った力士に代わって、専門(せんもん)の力士(りきし)が弓を振る儀式(ぎしき)のことだよ。

ださうだ。
「専門の力士」ってなんぢゃらほい?
これではまるでその力士は弓取り式しかしないみたいぢゃない。
もちろんそんなことはありません。
弓取り式をおこなふ力士は、現役の下位力士です。普通は幕下。ただし、毎日やるやうになってからの初代擔當大岩山をはじめ、關取でつとめた力士もゐます。當然、どの力士も自分の取組をしたうへで、加へて弓取り式をつとめてゐます。
まさか産經新聞がそんなことを知らなかったとは思ひません。幕下等の力士が云々と書くスペースがなかったのだらうと好意的に解釋しておきますが、結果としてうそを書いてゐることになります。
記事は正確に書いてください。

十兩と幕下の待遇格差を縮めてはならない

ふたたび大相撲八百長問題について。
今回發覺した八百長が十兩力士が中心だったことについて、十兩と幕下との待遇の格差の大きさが要因の一つであると指摘されてゐる。
たしかにその差は大きい。報酬といふ面だけをみても、十兩は月給が1,036,000圓。賞與が2箇月分あるので、それだけで年額14,504,000圓。そのほかに力士奬勵金(いはゆる「給金」)が場所ごとに最低160,000圓。ここまでの合計で15,464,000圓になる。持ち給金の大きい力士は、さらにそれだけ收入が增えることになる。
ほかにも力士補助金や出張手當(地方場所の手當)があるが、前者は結髮費用の一部補助だし、後者は部屋によっては宿舍の費用に充當される場合もあるだらうから、とりあへず除外しておく。
一方、幕下はどうかといふと、場所手當150,000圓×6場所=900,000圓。ほかに本場所の成績により、勝星奬勵金と勝越金があるが、これは7戰全勝でも41,500圓にすぎない。
すなはち幕下と十兩では、報酬面で十倍以上の差があるといふことになる。
そのほか、かたや付け人を持つ身、かたや付け人になる身であって、この差も大きい。また、着るものも、その地位によって許されるものに差がある。まさに十兩と幕下では、天國と地獄ほどの格差があると言ってよい。それゆゑに十兩力士が幕下に落ちるのを嫌って星の貸し借りがおきやすい、といふことだ。
まさにそのとほりであらう。
そのため、テレビではこの格差こそ八百長の源泉であり、それゆゑこの格差を小さくするべきだ、といふ論調が多かったさうだ。
ばかを言ってはいけない。
力士の待遇は報酬面もそれ以外の面もふくめて、序ノ口から幕下まではグラデーションのやうに徐々に上がり、十兩になると跳ね上がり、以降はまた橫綱までグラデーションを描いていくやうになってゐる。それはなにゆゑか。一言でいへば十兩以上は關取であり、幕下以下はさうではない、といふことにつきる。
さきほど「力士」といふ表現をつかったが、幕下以下は正式には力士ではない。「力士養成員」が正式な名稱だ。つまり一般社會でいふところの見習ひとか硏修生のやうなものだ。俗には「取的」ともいふ。つまり「關取的なもの」乃至は「相撲取り的なもの」といふことで、決して關取や相撲取りそのものではない、といふことだ。
ここに大きな差があるからこそ、なにがなんでも十兩以上になってやらうといふハングリー精神を生み出す。全體の待遇がグラデーションをなしてゐるのなら、さういふモチベーションは小さくならざるをえない。
ただ、これが逆に作用してしまひ、一旦十兩になった力士が幕下に落ちたくないあまりに八百長に手を染めてしまふ、といふ弊害が出たわけだ。本來なら十兩になるために必死に努力したやうに、落ちないやうに必死に努力しなければならないのに。
たしかに十兩と幕下の待遇差が小さければ、八百長は減るだらう(それだけで根絕できるといふものではない)。そのかわり、關取と呼ばれるために懸命の努力をする力士はもっと減ってしまふことは火を見るより明らかだ。八百長撲滅のために十兩・幕下格差を縮小、といふのは、交通事故撲滅のために自動車を禁止、といふのと同樣の本末轉倒の暴論と言ふほかない。
十兩と幕下の格差の大きさになんとなく搾取の構造を感じてしまふ人もゐるのかもしれないが、それもちがふ。なぜならば、大相撲は基本的に十兩以上の力士が稼いで幕下以下の力士を食はせてゐる構造だからだ。
幕下以下の取り組みを見に行く人がどれだけゐると思ひますか。テレビの中繼(幕下以下はなくなるさうですが)を見ても、幕下以下は客席ががらがらなのがわかると思ひます。「力士養成員」は、文字通り養成されてゐる立場なのだ。
アメリカのプロ野球においてもメジャーリーガーとマイナーリーガーではその待遇が天地ほどにもちがふ。稼ぐ(球團の收入に貢獻する)立場とさうでない(球團の收入に貢獻しない)立場のちがひだらう。角界とておなじことだ。
竹熊健太郞さんはtwitterで「十両は年収400万程度に止めて、そこから出世する毎にどんどん上げていけばいいのでは。十両で一千万超は多過ぎる。 」とつぶやいてゐたが、さきに述べた構造からして、十兩の年收が多すぎると言へるだらうか。現在幕內の定員は42名、十兩の定員は28名。あわせて70人しかゐない。膨大な人數の力士(養成員をふくむ)のうち、關取はたったの70人なのだ。力士總數は場所ごとに增減はあるが、約700人。その一割にすぎない。もちろん多くの者は數年で見切りをつけてやめていくのだから、關取にまで昇進できるものは入門者のほんの數パーセントにすぎないのだ。私見ではそこまでなった者に對して、いまの十兩の報酬は少なすぎるぐらゐだと思ってゐる。拘束時間などから考へれば、力士は世界でもっともめぐまれないプロスポーツ選手、といふ聲さへある。
くりかへす。十兩と幕下の待遇差を小さくしてはいけない。それは八百長の動機であっても、本質的な原因ではない。結果の平等を目指して、生產性の低下を招いた舊社會主義國の例もある。なすべきはその待遇差をいかに發奮材料とするやうにしむけるかだらう。

大相撲はこの際、膿をすべて出せ

去年、大相撲界をゆるがした野球賭博事件の搜査過程で、八百長の物證といふべきメールが復元されたといふことで、大きく報道されてゐます。
八百長があきらかになったといっても、わたしは別段おどろいたりしません。わたしに限らず、好角家はだれもおどろいたりしてはゐないのではないでせうか。大相撲に八百長乃至は星の貸し借りがあるのは常識のやうなものです。「八百長」の語源が相撲に關係があることも廣く知られてゐることでせう。
野球賭博のときもさうでした。相撲取りが博打好きなのはあたりまへだし、角界とやくざ、もしくは俠客が密接に關係してゐるのも歷史的に當然のことです。相撲にかかわらず興行とやくざといふものは切っても切れない關係があるのですが、特に相撲の場合は力士そのものと俠客が同根ともいふべきところがありますから。だからこそ「め組の喧嘩」なんかが起こるわけですね(火消し・鳶も廣義の俠客である)。
だからといって、野球賭博事件も八百長も、わたしは擁護しようとは思ひません。江戶・明治のむかしならともかく、財團法人として稅制面その他において優遇措置を受けてゐる現在においては、認められることではないでせう。現在、特例財團法人である日本相撲協會は平成25年11月30日までに公益財團法人になるか、一般財團法人になるかをえらばなければなりません。一般財團法人となってしまへば、稅制上の優遇措置の不適用はおろか、公益目的財產額を保有しつづけることはできなくなってしまひます。さうなると國技館の土地も國に返上しなければならなくなってしまひます。
公益財團法人になるためには國の認可を受けなければなりません。「暴力團ともつきあいます。八百長もやります。だけど公益法人として稅制その他優遇は受けさせてください。」といふのが通らないのはあたりまえです。
わたしは保守主義者ですから、角界は傳統をまもってほしい。しかし、傳統をまもるといふことは、なにも變はらないことではありません。エドマンド・バークも言ふやうに、保守するためには改革が必要なのです。映畫「山猫」でもタンクレディが「We must change to remain the same.」と言ってゐます。
變はるための時間はこれまでたっぷりあったはずです。いまどき八百長が發覺するといふのは、それにもかかわらず變はる努力をしてこなかったといふことにほかなりません。おそくとも、みづからも中盆でもあった元板井關の講演があったときからでも八百長撲滅の努力をするべきだったのです。
それなのに元板井關の發言を默殺するやうな擧に出たり、週刊現代記事に對して民事訴訟を起こしたりして、事態を糊塗するだけでした。
もう自分の尻に火がついてゐたにもかかはらず、それに氣がついてゐなかったのです。
おそらくもうこれが最後のチャンスでせう。八百長をはじめ、角界の暗い面をすべて出し切らなければいけません。
つよい批判も受けるでせう。ことによっては本場所の開催自肅さへも考へざるをえなくなるかもしれません。
それでもこの際、徹底的に自己改革をしてほしいのです。角界が傳統をまもって、變はらずに生き殘るためにはみづから變はらなければならないのです。
相撲好きの一人として、ぜひともさうやって、變はらずに生き殘ってほしいと心からねがひます。

大相撲はスポーツか文化か

明日、朝靑龍が橫綱審議委員會であやまることになったさうですね。なんでも高砂親方が朝靑龍があやまりたいと言ってゐる、と勝手に橫審に言って、その後、朝靑龍に連絡して了解をとった、とか。
變ですよね。本來なら、朝靑龍の方からあやまりたいからさういふ場所をつくってください、と言ふべきですよね。まあ本人は今でもあやまるやうな惡いことをしたとは思ってゐないんでせうね。現に日刊スポーツの記事では“最初は驚いて「えっ?」とか言っていたけど、”“戸惑いながらも「はい。分かりました」と返答した”とのことですから。
いまや橫綱といへば外國出身力士の指定席のやうになってしまってゐますが、ほんの十數年前までは外國出身橫綱といふのは歴代一人もゐなかった。小錦が橫綱になれずに、米紙にこれは人種差別のためだと言ったとか言はなかったとかで問題になったこともありました。
その前後のことだったと思ひますが、とある橫審の委員が、外人橫綱はいらない、橫綱の條件に「品格、力量が拔群であること」とあるが、外人力士にはふさはしい品格がそなはらない、などと發言したこともありました。
當時は隨分無茶なことを言ふなあ、と思ったものですが、今にして思へばこの發言、一理も二理もあったのだなあと思はざるをえません。
いまのわかい人たちはどう思ってゐるのかは知りませんが、筆者のやうな年寄は、やはり大相撲といふとただのスポーツではない、スポーツである以前に日本の文化だ、といふ感覺が自覺的にしろさうでないにしろあるやうに思ひます。實際、ふるくから宮中では相撲の節會がおこなはれ、いまでも天子樣の來臨を仰ぐことがあるのですから。日本人であれば子どものころからさういふことを見聞きしてきてをり、それゆゑ力士となる者も自然、品格といふことを意識したのではないかと思ひます。
それに對して外國出身力士は、さういふ原體驗がない。それゆゑ、入門後、あるいはその前にどんなに敎育を受けたとしても、歴史のある格鬪技、といふ程度の認識しか持てないのかもしれません。
もちろん、外國出身力士だからといって、絶對に橫綱にふさはしい品格がそなはらないとは言へないでせう。かつての高見山(現東關親方)のやうに、日本人以上に日本人らしいといはれた力士もゐました。逆に前田山のやうに、橫綱免許に「粗暴の振る舞ひこれありし時には自責仕る可く候」とただし書きをつけられた品格に少々疑問點のある橫綱もゐましたが。(この二人が師弟であるといふのは歴史のあやでせうか。)
さういふことを考へると、いまのやうに外國出身力士が多數をり、橫綱をはじめ上位陣の多くを外國出身力士で占めるやうになると、もはや日本文化としての大相撲は成り立たないのかもしれません。現在、大相撲はスポーツとしての側面と文化としての側面を兩立させようとしてゐるやうです。しかし、どだい、外國出身者を受け入れた上で日本文化であり續けるのは無理なのではないでせうか。
さうすると、純スポーツか、文化かのどちらかを選ばなければならないときが近づいてゐるのかもしれません。
純スポーツとするのなら、外國人の受け入れ制限も全廢する。力士の行動も法に反さないかぎり、とやかく言はない。割りの決定も、番付と成績の兩面から人爲的に決めてゐるのをあらため、機械的に決める。本割りでの同部屋對決もおこなふ。といふより、部屋制度そのものも見直さなければならないかもしれません。さらには日本相撲協會の非公益法人化も視野に入れなければならないでせう。
文化とするのなら、日本國籍保持者以外の入門を認めない。橫綱のみならず、力士の品格保持をやかましく言ふ。同部屋對決はおこなはない。云々。とせざるをえないでせう。もちろん相撲協會は公益法人のままで、入門時の敎習もいまより充實させる。
さてその場合、どちらの大相撲が魅力的でせうか。われわれはどちらの大相撲を見たいのでせうか。私は結論を出せずにゐます。

日本シリーズ第5戰の繼投問題雜感

日本シリーズは大方の豫想どほり(?)、いきほひにまさるドラゴンズの日本一となりましたね。
で、なんですか。先發の山井大介投手が8囘まで完全試合だったのに、9囘からリリーフエースの岩瀨仁紀投手にかへられたとか。岩瀨投手も三者凡退におさへて、繼投での完全試合といふことになったのださうですね。
この件について玉木正之さんがご自身のサイトで、つよく批判してゐるさうです。曰く「100年に1度あるかないかの凄い興奮の瞬間よりも53年ぶりの優勝を確実にしたかったというならナント小心な夢のない野球か!」
まあ、玉木さんならさういふでせうね。玉木さんはむかしから一貫して、勝敗にのみこだはる野球を批判してきた。野球がゲームである以上、勝敗は大事ではあるが、もっと大切なことがある、といふことだ。それは、プレーヤーの側からすればおもいっきり打ったり投げたり走ったりするダイナミズムであり、觀客の立場からすれば、みてゐてわくわくすること、血沸き肉踊る感覺、兩方あはせて一言でいふならば、野球本來の樂しみ、といふことだらうと粗忽亭は理解してゐる。
粗忽亭は玉木さんの文章については、そのユーモアセンスと、本人がそれをおもしろいと思ってゐるらしいことをのぞけばおほむね好きだ。今囘の件についても玉木さんの主張を支持する。そもそもヒット1本打たれてから、あるいはフォアボールを出してからかへてもおそくないではないか。1對0と、最小リードであった點は理解するが、いきなりホームラン打たれても同點になるだけ。しかも3勝1敗だったんだから、逆轉負けしてもまだ大丈夫。「Wシリーズでもたった1回の記録」と天秤にかけたら、そちらの方がはるかに重いと思ふけどねえ。
正之といへば、「燃えよドラゴンズ!」の山本正之さんはどう思ってゐるだらう。山本さん、落合ぎらいだからなあ。「日本一になったんやからサッサと辞めてほしい。」には完全同意ではないだらうか。
ところで、この件を報じた産經新聞(web)の記事タイトルは「あわや完全試合…中日・山井、非情の交代」(イザ!の記事Yahoo!ニュースの記事msn産經ニュースの記事)。完全試合しちゃいかんのかね。産經は記者もデスクもそろって日本語が不自由らしい。

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