カテゴリー「アニメ・コミック」の記事

【書評】文藝別冊 [総特集]いしいひさいち 仁義なきお笑い

先日發賣になった本書は、編輯の新保信長が作るのが30年來の野望であったといふだけあって、おどろくほどの内容の濃さだ。なかでも新保自身の手になる(名義は南信長)図説[ジャンル別]作品解説と、いしいひさいち小事典は編者の愛と思ひ入れのたまものと言はねばならない。 
それにくはへてインタビュー嫌ひのいしいが、インタビューにかへて書き下ろしたでっちあげインタビューは讀みごたへ滿點。いろいろ貴重な知られざる事實があきらかにされる。もっとも、いしいのことであるから、100%本音、100%眞實かどうかは保證のかぎりではないが、その點を念頭におきながら讀めば貴重な資料であらう。 
あと、意外にと言っては失禮だが、おもしろかったのは、10人の漫畫家による特別寄稿マンガ。とり・みきはロカちゃんに戀をしたと告白し、 
  とり「写真集出してください!!」 
  いしい「昔あったね そんなの」 

って、それ、やっぱり文藝別冊で総特集が出たあの人のことですか。 
秀逸だったのが西原理恵子。 
  「よく、やくみつるがデビュー当時いしいひさいちのタッチをパクってると言われていたが 私もパクってんだよ。誰か気づけよ。」 
って、言外になかなかキツイことを言ってゐますね。うちは夫婦そろっていしいひさいちの大ファンで、やくみつる嫌ひなので、大笑ひしました。 
單行本未收録の出版業界實名パロディ問題作「前戯なき戦い」が收録されたのもうれしい。次の機會にはぜひともそれ以上の出版業界實名パロディ問題作であった「元気なき戦い」を本にしてください。

「ののちゃん」山野しげさんの考察その後

先だって、“「ののちゃん」山野しげさんの考察”で山野しげさんがなぜむかしもいまも山野姓なのかを考へてみました。
ところが、先日發賣の「ののちゃん全集8」を讀んでゐたら新情報がありました。
この卷からあたらしくなった卷頭の人物紹介。その中の第8代勝左衞門(柴島孫三郎)の項目にかうあります。「総合ニッチ商社柴島商会を経営。しげさんの故・同居人とはかつての兄弟分。」
この表現、ちょっと氣になりますね。「夫」ではなくて「同居人」。變にあやふやな表現ではありませんか。
これはひょっとすると、松子さんの兩親(父親としげさん)は入籍せずに同棲してゐた、それでできた子が松子さんといふことなのかもしれません。
とか思ひながら讀み進めてゐたら、第4850囘(195ページ)でしげさんが松子さんのことを「生むかどうか迷うた。」と言ってゐます。これは實は、正式な夫婦ではなかったから、とも考へられないでせうか。
さういへば「兄弟分」なんて表現が出てくるところからすると、この「同居人」は結構任侠の氣風な人だったのかもしれません。いろいろと想像がひろがります。

「ののちゃん」山野しげさんの考察

9月23日附朝日新聞掲載の「ののちゃん」第5039囘で、のの子のおばあさん、山野しげさんの小學生時代と思はれる囘想シーンが出てきます。この中でしげさんは先生に「コラァ山野 立っとれ!」としかられてゐます。また、現實世界の方では、バケツを持つたしげさんのすがたに通りがかった男の人が當時の記憶をよみがへらせ、「同級生の山野さん!」と聲をかけてゐます。
といふことは、しげさんは小學生時代から山野姓であったことになります。子どものころも山野で、いまも山野。とすると、その理由はつぎのやうなことがかんがへられます。

(1)實はしげさんは未婚の母であった。
(2)結婚はしたが、離婚した。娘(まつ子さん)を引き取り、舊姓にもどした。
(3)夫と死別後、舊姓にもどした。
(4)結婚相手も山野姓であった。
(5)異姓の人と結婚したが、妻(=しげさん)の姓を名乘ることになった。

(1)(2)については、しげさんは夫と死別してゐる設定なので、除外します。
(3)は法律上は可能ださうですが、必然性を感じません。
(4)は御都合主義的な感じもしますが、むかしのことですから、從兄弟や又從兄弟など、親族との結婚といふのは必ずしもめづらしいものではなかったと思ひます。
(5)は一番ありさうなケース。民法上、どちらの氏を名乘るかは任意ですが、一般的にはいはゆる「婿養子」のケースですね。

さういへばこの漫畫の定番ネタにしげさんが「(家の)土地はわたしの」と主張するものがあります。そのこだはりかたは、土地が夫の遺産だったといふよりは、自分の先祖傳來の相續財産であるためか、などと妄想したくもなります。
さらに、しげさんには、近所に子ども時代からの知り合ひがゐるやうです。「乾物屋の三郎」とか。といふことは、どこかから嫁に來たのではなく、ずっとここに住んでゐる可能性が強くなりますね。さうすると、やはり(5)の婿養子説が有力なやうに思へてきます。まあ、(4)説でも近所の親戚とかいふのなら可能ですが。
なほ、しげさんのあの氣の強さは「跡取り娘」であったためかなあ、などとこれまた妄想したくなります。
ところで、「婿養子」説が正解だとすると、しげさんも子どもはまつ子さん一人のやうですし、山野家は女系家族なんでせうかね。で、まつ子さんは一人娘ながら夫の姓をえらび、「山田まつ子」になったと。それで山野家ではなく山田家なので、のぼるくんもできた、と。いへ、全部妄想ですが。
眞相はいかに。

もうなにがなにやら

稀代の惡法といふべき東京都靑少年健全育成條例改正案が昨日、可決されてしまひました。この條例改正を推進した人たちは日本をどうしたいのでせうね。北鮮や中共のやうに、言論・表現をお上が隨意に取り締まれるやうな社會にするのが究極の理想なのでせうかね。私が心から誇りとする日本の言論の自由、表現の自由をぶちこはし、さらには世界をリードする日本の漫畫文化を衰頽させようと考へてゐるのかもしれません。この條例改正を推進した人たちは全員、惡質な反日勢力であると斷定せざるを得ません。
さて、その反日勢力の親玉である石原慎太郎都知事は條例改正の成立に際して「あたりまへだあたりまへ。日本人の良識だよ。」と發言したとか。といふことは、石原氏から見れば、この條例に反對する人は良識のない人、といふことになりますね。つまり、ごく一部だけをあげますが、里中満智子、ちばてつや、藤子不二雄A、萩尾望都、西岸良平、こうの史代といった日本を代表する漫畫家はそろひもそろって良識のない人たちなんでせうね。こうの史代さんは文化廳メディア藝術祭マンガ部門大賞を受賞してゐますから、そんな人に賞をあたへる文化廳は良識のない官廳といふことになってしまひさうです。
ちばてつやさんは文部科學大臣賞を受賞してゐますから、文化廳どころかその上級官廳である文部科學省そのものが良識のない官廳なのでせう。
いえ、それどころではありません。ちばさん、西岸良平さんは紫綬襃章を受賞してゐますし、藤子不二雄Aさんは旭日小綬章に敍勳されてゐます。內閣府賞勳局も良識のない官廳といふことになりませうか。
ちなみに襃章も敍勳も天皇の國事行爲です。といふことは、石原氏は閒接的に天皇陛下も良識がないと言ってゐることになってしまひさうです。やっぱり反日勢力……。
なほ、この條例改正に反對を表明してゐるのは個人だけではありません。たとへば日本辯護士聯合會や日本ペンクラブも反對聲明を出してゐます。日辯連もペンクラブも良識のない團體なんでせうね、きっと。それにしても石原氏も猪瀨直樹副知事も、その良識のない日本ペンクラブの會員なんですが、これはなぜなんでせうね。條例改正を「良識」と言ひ切るのなら、石原氏や猪瀨氏はなぜペンクラブを脱退しないのか。こんな良識のない連中と付き合ってゐても平氣なんでせうか。
そんでもって、ナンパした女を輪姦した擧句、崖から突き落として殺す「完全な遊戯」や、ナンパした女を睡眠藥で昏睡させて强姦(正確には準强姦か)し、處女だった女を發狂させてしまふ「処刑の部屋」なんて小說を書いた石原氏は良識があふれてゐるといふことなんでせうか。もうなにがなにやらわかりません。石原氏のいふ「良識」と私の知ってゐる「良識」とはまったく別物のやうです。

いしいひさいちの大豫言

今年もいしいひさいち・峯正澄著「大問題'10」が出ました。
この「大問題」シリーズは基本的にタイトル(發行年)の前年に書かれたいしいさんの時事ネタ漫畫を收錄し、それに峯さんの書き下ろしコラムがつけられたものです。
この中に今年の事件を豫言するかのやうなネタがありましたので、紹介します。
ネタは舛添厚生勞働大臣(當時)と、彼のところをたづねてきた外國の大統領との會話。セリフだけ拔き出すと、つぎのとほり。

官僚「舛添大臣、ポトロココ大統領です。」
大統領「おお大臣、日本の長寿はすばらしいですね。しかもこのところ平均寿命がまた伸びている。」
舛添「大統領、それは高齢者が亡くならないからです。」
大統領「はあ…」
舛添「つまり高齢者が生きているからなのです。」
大統領「よくわかりませんが。」
舛添「お国とちがって互助社会の崩壊した日本の貧困は老人の年金に頼らざるを得ず死亡届が出てこないのです莫大に。」

ね、いま話題の「住民票上は生きてゐて、年金も支拂はれてゐるのに實は死んでゐた高齡者」續出事件そのものでせう。いしいひさいち、おそるべし!

ツンデレももはや學術研究對象

土曜ことばの会」といふ言語學研究會があるさうです。詳細はリンク先を。
その次囘(10月11日)の發表會では「役割語としてのツンデレ表現―役割表現研究の可能性―」 といふ發表がおこなはれるとのこと。ツンデレももはや立派な學術研究對象なんですね。發表者は粗忽亭の大學漫研の先輩です。なほ、

第2弾、「ツンデレ表現の待遇性」も執筆中です。

ださうです。
ちなみに、發表者は甲南女子大学文学部日本語日本文化学科の日本語學の教授ですので、岡田斗司夫さんの「オタク文化論」なんかとは相當毛色のちがふものだと思ひます。多分。

「カリ城」の破綻點

「たけくまメモ」に「パンダとポニョ」といふエントリがあがってゐます。なかなかの長文で、3回に分けてアップされてゐます。その(1)その(2)その(3)
で、その(2)で竹熊さんは

宮崎アニメについては昔から言われていることがふたつあって、それは「プロット(物語の組み立て)が破綻している」ということと「プロットの破綻が気にならないほど映像が素晴らしい」ということです。

と書いてゐます。
それに關連して、コメント掲示板の方で、さういふ破綻は「千と千尋」以降だ、いや、むかしからだ、「カリオストロ」はストーリー無茶苦茶だ、いやいや「カリオストロ」は、ストーリーはタイトなつくりだ、ストーリーは無茶苦茶ぢゃない、云々なんてやりとりがありました。
それでおどろいたのが、宮崎監督のファンの中には、「カリオストロ」のストーリーが破綻してゐないと思ふ人もゐるのだな、といふことです。
わたしはもうだいぶ前からアニメに對する、といふより、フィクション全般に對する興味がうすれてゐるので、宮崎監督の作品も「紅の豚」(これもテレビで見ただけ)を最後に見てゐないのですが、元おたくとして、「カリ城」は大好きな作品です。しかし、この作品に破綻がない、あるいはストーリーが無茶苦茶ぢゃない、といふ人が、少なくともファンの中にゐるとは思ってもゐませんでした。「カリ城」の偉大なところは、ストーリーの破綻などものともしないおもしろさにあると思ってゐたからです。
だってさうでせう。冒頭、ルパン一味は國營カジノから大量の現金を強奪しますが、それがゴート札だと氣づくと、惜しげもなく捨ててしまふ。これはルパンの、超一流の泥棒として、僞札などぬすんでよろこんでゐられるか、といふ矜持だと解釋できるでせう。(Wikipediaによると家訓らしい)
しかし、そのあと、つぎの仕事は決まったと言ってカリオストロ公國に潛入するわけですが、その「仕事」といふのがなんなのかさっぱりわからない。なにを目的に潛入したのか謎なんですね。泥棒が「仕事」といふ以上、なにかを盜むことが目的のはずなんですが。わたしの記憶では、それについて語られてゐる場面はなかったやうに思ひます。
でまあ、潛入に成功してみると、城内にたまたま不二子がすでにもぐりこんでゐる。これなんかご都合主義としか言ひやうがありません。
それで、カリオストロ公國内でのルパンの行動を見ても、なにひとつ本來の泥棒としての行動をとってゐるやうに見えないのです。いみじくもラストシーンでクラリスが、あの人はなにもぬすんでゐない、わたしのためにたたかってくれただけ、と言ふやうに。
そして、不二子がゴート札の原版を持ち出していくのを見ると、それに色氣を示してゐます。それって、冒頭で僞札をおしげもなくまきちらしたのと、どうかんがへても矛盾してゐます。
このほかにもこまかい矛盾點はいくつもあります。でも、それをこえて「カリ城」はおもしろい。何度見てもおもしろい。單純に爽快、痛快といふだけでなく、感動さへしてしまふ。「カリ城」の眞骨頂はここだとずっと思ってゐました。
くりかへしますが、わたしは「カリ城」が大好きです。現役のおたく時代には、何度もくりかへして見ました。だから、この作品をけなす氣もちなんてさらさらない。
でも、いや、それだからこそ思ふのです。この作品を「ちゃんとしたストーリー」といふのは、ひいきの引き倒しではないかと。むしろ、さういふ矛盾點すら超越した傑作なのだと、素直に解釋すればよいのではないでせうか。

なんでこんなところに萌え繪が

とびっくりしたオハナシ。
昨日、音や金時に「KAO'S! 絶品アコースティック」といふライブを聽きにいきました。高橋香織、鬼怒無月、渡辺等、仙波淸彦といふソノスヂでは知られたメンバーです。
今日書かうと思ってゐるのはライブのはなしぢゃありません。メモはとってあるんで、時間ができれば書きたくはあるのだけど。
なんのはなしかといふと、當日くばられたチラシのはなし。音や金時のスケジュールが二つ折りにされ、そこに數枚のチラシがはさまれてゐました。で、丁度二つ折りのスケジュールからはみだしてゐる部分になぜか萌え繪が。な、なんでだ。さういふのとはほど遠さうなメンバーのライブなのに。鬼怒さんは漫畫好きだけど、萌えアニメファンぢゃないだらうに。と思ってひっぱり出して見たら、“『BAMBOO BLADE O.S.T』CD発売記念ライブ☆仙夜一夜☆”のチラシでした。
このアニメの音樂を仙波さんが擔當してゐるらしい。しかも、高橋さんも參加してゐるらしい。MCによるとO.S.T.の1st(先の繪がジャケット)は仙波さんが曲を書いたのだが、たくさん書いてつかれたので、2nd(3月26日發賣豫定らしい)は高橋さんにほとんど丸投げした、とか。それにしても仙波さんがアニメの(それもかういふ繪柄の)音樂をやってゐるとは、考へもしませなんだ。しかしこの作品、劍道アニメらしいので、邦樂囃子仙波流家元の仙波師匠にふさはしいのかもしれません。
さういや鬼怒さんも「狼と香辛料」の音樂に參加していますね(過去には「BRIGADOON まりんとメラン」にも)。意外にアニメ音樂關係者率の高いライブでした。

「ヤッターマン」のリメイクについて

私は山本正之さんのファンだが、「ヤッターマン」をふくむタイムボカンシリーズはほとんど觀てゐないし、それゆゑ、特に思ひ入れもない。以下はそれをふまへてお讀みください。

リメイク版「ヤッターマン」の詳細が發表されるにつれて、ネットではいろいろと反撥もひろがってゐるやうです。特にオープニング・エンディングの主題歌についての反撥が。
先に發表されたエンディングについては、mihimaru GTとかいふユニットが唄ふさうです。私はこのユニットについて、まったく知らない(この發表ではじめて知った名前です)ので、なんとも言ひやうがありません。でも、いっくらなんでも「切ないラブ・バラード」ってのは場違ひぢゃないか、といふ氣はしますけどね。
オープニングは舊作の「ヤッターマンの歌」を世良公則と野村義男のユニット「音屋吉右衛門」が歌ふさうです。
で、ネットでは惡評だらけ。要は「なんで山本正之が唄はないんだ」といふことのやうなんですけどね。
エンディングについては上に書いたとほり、場違ひなものになりさうな危惧は私も持ってゐます。しかし、オープニングについては別にいいんぢゃないかな、といふ氣がするんですがねえ。山本さんが唄はなくても。
タイムボカンシリーズのオープニング・エンディングは「いただきマンボ」をのぞいて山本さんの作曲だが、ほかの人が歌ってゐるものも多い。エンディングはもとよりオープニングだけとっても「ゼンダマンの歌」「ヤットデタマンの歌」は山本正之本人が唄ってゐない。さういふのと同じだ、と考へればいいだけだと思ふんだけどなあ。
結局かういふ人たちは、なんでもかんでももとのままがいい、といふことなんでせう。でもそれぢゃあリメイクする意味がない。再放送しときゃいい、といふことになるんぢゃないでせうか。個人的にはオープニングが「ヤッターマンの歌」のままで(本當は新曲を書いてほしかったけど)、BGMも山本さんがやって、三惡の聲優も舊のまま、といふだけで上出來だと思ひますけど。
某所で「ネットを少しでも見れば確実に売れる方法がこれだけ書いてあるのに。」と書いてゐた人がゐたけど、それは「舊作のファンで、いまでもアニメを、すなはちヤッターマンの新作を觀てくれる人がよろこぶ方法」にすぎないのぢゃないか、といふ氣がします。舊作ファンを取り込みつつ、新しい視聽者も開拓するためにはいろいろ工夫をこらすのはあたりまへの努力だと私は思ひます。

吾妻ひでおと「萌え」

吾妻ひでお先生が、「萌えの元祖」と言われることについて、「うつうつひでお日記」や「リュウ」誌で「俺は萌えなどという気持ち悪い言葉は知らん」という趣旨の発言をしていることが一部で話題になっているようだ(粗忽亭は「リュウ」誌は未読)。それについて少々考察を。(以下敬称略)
まず、「萌え」ということばが一般化したのは、1990年代であり、吾妻ひでおが純文学シリーズ等々を描いたり、「シベール」を作ったりしていたころにはなかったことばである、という点には留意する必要があろう。それゆえ吾妻が「俺は知らん」というのは当然といえば当然だ。当時、吾妻の描く美少女などをあらわすことばとしては「ロリコン」といのが一般的だった。この「ロリコン」というのは、本来のlolita complexとは少々意味あいがちがう、と思ったほうがいい。美少女―特に二次元のそれ―をめでる気もち、ぐらいにとらえておくのが妥当だろう。一説によると、lolita complexは英語だが、ロリコンは和製英語だ、ともいう。とすればanimationとアニメのちがい、変態と(その頭文字から発生した)エッチと(英語化した)hentaiのちがいのようなものかもしれない。
話がずれたが、そもそも吾妻ひでおの美少女キャラクターと現今の「萌え」キャラとは大きなちがいがあるように思う。それは「媚び」があるかどうかではないだろうか。
「萌え」キャラは作中の男性キャラに対して、また、読者(である男性)に対して、意識的か無意識かは別にしても「媚び」の要素が濃厚に感じられる。はやりのツンデレにしても、「ツンツン」の部分は「デレデレ」を引き立てるための要素、といってもいいのではないか。
それに対して吾妻美少女キャラは基本的に「媚び」がない。ミャアちゃん(猫山美亜)などはその典型だ。ななこだって、気弱でやさしいだけであって、媚びているわけではない。「やけくそ黙示録」の阿素湖素子などは潜入した学校で、教師からお前には男への媚びがない、と明確に指摘されている。
これは還元すれば、「萌え」キャラ系の作品は一般的にいって男性が主で女性が従、という構造なのに対して、吾妻作品は基本的に女性が中心であり、男性キャラはそれにふりまわされる役割だ、ということにもなる。「ななこSOS」あたりはそのへんの配分が微妙だが(ただし私は、この作品においてもななこという「状況」に周囲がふりまわされているのだと思うが)、「スクラップ学園」、「やけくそ天使」、「贋作ひでお八犬伝」、「みだれモコ」等においては、確実に女性キャラクターが世界の中心の位置を占めている。
そういうことを考えあわせれば、吾妻ひでおを「萌えの元祖」と位置づけるのは、やはりまちがっている、というべきではないかと私は思うのだ。
それでは吾妻が現在の「萌え」に無関係かというと、そんなことはない。吾妻ひでおがいなければ現在の「萌え」はなかった、というのはいいすぎかもしれないが、少なくともいまの「萌え」とは随分ちがったものになっていたであろうと思うし、あるいはこの状況は10年遅れていたかもしれない。
結局吾妻ひでおは「萌えの元祖」ではなく、「萌えの源流(のひとつ)」に位置づけるべきなのではないだろうか。どんな大河も源流は小川であったり湧き水であったりする。だがそれは大河そのものではない。その源流にそのほかの源流が合わさり、雨がくわわったりして大河になるのだ。
「萌え」な作品を描いている人には直接・間接に吾妻ひでおの影響を受けている人は多いと思う。そんなわけで、吾妻ひでおは「萌えの源流の(主要な)ひとつ)」というのがもっとも正確なのではないか、と私はかんがえるのだ。

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