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2014年1月に作成された記事

東京一極集中はいつからだ

讀賣新聞1月19日の編集手帳にこんな記述がある。

歴史を顧みれば、慶長19年(1614年)の冬の陣と翌年の夏の陣で、世の中心が江戸に移って以降、東京一極集中が続く。

編集手帳子はいったいどんな歴史をかへりみたんだらう。
たしかに豐臣氏の滅亡以降、政治の中心は江戸に移った。しかし江戸時代を通じて大坂は「諸國之臺所」といはれた經濟の中心地であり續けた。藏屋敷が建ち竝び、堂島の米會所は活況を呈した。また、寛永文化や元祿文化は上方を中心にさかへたのである。
江戸時代も後期の化政文化は江戸が中心であったと言ってもよいが、それでも地歌・筝曲は上方が中心であった。江戸後期の文藝でも與謝蕪村や上田秋成など、上方で活躍した人士は少なくない。
また、蘭學の中心地は江戸よりもむしろ長崎であった。それゆゑに前野良澤、大槻玄澤をはじめ多くの蘭學者が長崎に遊學してゐるのである。また、適塾の存在をかんがへれば、大坂の蘭學のレベルも輕視はできない。
そもそも江戸時代は封建時代である。封建制度とは封土によって建つ制度であり、すなはち地方分權的制度だ。もっとも日本の江戸時代といふのは世界史的にも珍しい、中央集權的な側面をもった封建制度ではあるが、それにしても東京(江戸)一極集中とは言ひがたい。
「下らない」といふことばがある。これは酒をはじめとする文物は上方のものが至上であり、江戸では上方から下ってきたものを「下りもの」といって尊び、さうでないもの(江戸地産のものなど)を「下らないもの」といったためと言はれてゐる。これのどこが一極集中だといふのだらう。
政治にしても、幕末は江戸よりもむしろ京都の方がある種、中心地の樣相を呈してゐた。決して「冬の陣と翌年の夏の陣で、世の中心が江戸に移って以降、東京一極集中が続」いたわけではないのである。
では東京一極集中がはじまったのはいつごろからだらうか。明治維新がひとつのきっかけであったことはたしかだらう。だが、それ以降も大阪は纖維を中心とする輕工業の中心地として「東洋のマンチェスター」などと呼ばれてゐる。
私は他地域についての知見はあまりないのだが、こと大阪に關して言へば、その地盤沈下がいちじるしくなったのは戰後、特に高度成長期以降ではないのか。空襲で工場、商業地區、港灣施設、その他重要設備が灰燼に歸し、高度成長によって日本の工業の比重が輕工業から重工業にうつったことが大阪の經濟的な地位低下につながった。
どちらにしろ、東京一極集中などと言へる傾向はここ數十年、かなり擴大解釋しても明治以降の百數十年のものであらう。
それを江戸時代初期から續いてきたやうに書くのはあまりに不勉強である。世界最大の新聞の看板コラムがこれでは、ちょっとなさけない。

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