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2011年2月に作成された記事

關西人ならさうは考へない

webブラウズしてゐると、ときどき「ポンパレ」といふサイトの廣吿が表示されることがあります。「リクルートの割引チケットサイト」ださうです。
その廣吿(のうちの一つでせうけど)は、かういふもの。溫泉にはいってゐるらしいわかい御婦人の寫眞があって、コピーは「この旅館、高かったんでしょ? (実は半額以下だったなんて、言えない…。)」
おそらく男の人が奧さんか戀人と溫泉に行った、といふシチュエーションなんでせう。で、とまった旅館がいかにも高級さうなたいへんすばらしい旅館であったと。そこで、よろこんでゐる相手に實は安かったとは言へない、と。

これ、少なくとも關西人の發想ではありませんね。關西人ならこんな會話になるはずです。
「この旅館、高かったんでしょ?」
「さう思ふやろ?普通やったら二人で60,000圓すんねんで。せやけどええ割引チケットがあってな、なんと25,000圓。」
「えー、ほんま?めっちゃラッキーやん。あんた買ひもんうまいなあ。」

てな感じで、一緖によろこびこそすれ、安く買へたといふ理由でへそをまげたりはしません。
もちろん、もともと安い、そのぶん施設も食事もおとる旅館なら怒るでせう。でも、價値のあるものが安いといふことにはなんの不滿もありません。
まあ、「安うついてんから、浮いた分でまたどっかつれてってね♪」ぐらゐのことは言はれるかもしれませんけど。

十兩と幕下の待遇格差を縮めてはならない

ふたたび大相撲八百長問題について。
今回發覺した八百長が十兩力士が中心だったことについて、十兩と幕下との待遇の格差の大きさが要因の一つであると指摘されてゐる。
たしかにその差は大きい。報酬といふ面だけをみても、十兩は月給が1,036,000圓。賞與が2箇月分あるので、それだけで年額14,504,000圓。そのほかに力士奬勵金(いはゆる「給金」)が場所ごとに最低160,000圓。ここまでの合計で15,464,000圓になる。持ち給金の大きい力士は、さらにそれだけ收入が增えることになる。
ほかにも力士補助金や出張手當(地方場所の手當)があるが、前者は結髮費用の一部補助だし、後者は部屋によっては宿舍の費用に充當される場合もあるだらうから、とりあへず除外しておく。
一方、幕下はどうかといふと、場所手當150,000圓×6場所=900,000圓。ほかに本場所の成績により、勝星奬勵金と勝越金があるが、これは7戰全勝でも41,500圓にすぎない。
すなはち幕下と十兩では、報酬面で十倍以上の差があるといふことになる。
そのほか、かたや付け人を持つ身、かたや付け人になる身であって、この差も大きい。また、着るものも、その地位によって許されるものに差がある。まさに十兩と幕下では、天國と地獄ほどの格差があると言ってよい。それゆゑに十兩力士が幕下に落ちるのを嫌って星の貸し借りがおきやすい、といふことだ。
まさにそのとほりであらう。
そのため、テレビではこの格差こそ八百長の源泉であり、それゆゑこの格差を小さくするべきだ、といふ論調が多かったさうだ。
ばかを言ってはいけない。
力士の待遇は報酬面もそれ以外の面もふくめて、序ノ口から幕下まではグラデーションのやうに徐々に上がり、十兩になると跳ね上がり、以降はまた橫綱までグラデーションを描いていくやうになってゐる。それはなにゆゑか。一言でいへば十兩以上は關取であり、幕下以下はさうではない、といふことにつきる。
さきほど「力士」といふ表現をつかったが、幕下以下は正式には力士ではない。「力士養成員」が正式な名稱だ。つまり一般社會でいふところの見習ひとか硏修生のやうなものだ。俗には「取的」ともいふ。つまり「關取的なもの」乃至は「相撲取り的なもの」といふことで、決して關取や相撲取りそのものではない、といふことだ。
ここに大きな差があるからこそ、なにがなんでも十兩以上になってやらうといふハングリー精神を生み出す。全體の待遇がグラデーションをなしてゐるのなら、さういふモチベーションは小さくならざるをえない。
ただ、これが逆に作用してしまひ、一旦十兩になった力士が幕下に落ちたくないあまりに八百長に手を染めてしまふ、といふ弊害が出たわけだ。本來なら十兩になるために必死に努力したやうに、落ちないやうに必死に努力しなければならないのに。
たしかに十兩と幕下の待遇差が小さければ、八百長は減るだらう(それだけで根絕できるといふものではない)。そのかわり、關取と呼ばれるために懸命の努力をする力士はもっと減ってしまふことは火を見るより明らかだ。八百長撲滅のために十兩・幕下格差を縮小、といふのは、交通事故撲滅のために自動車を禁止、といふのと同樣の本末轉倒の暴論と言ふほかない。
十兩と幕下の格差の大きさになんとなく搾取の構造を感じてしまふ人もゐるのかもしれないが、それもちがふ。なぜならば、大相撲は基本的に十兩以上の力士が稼いで幕下以下の力士を食はせてゐる構造だからだ。
幕下以下の取り組みを見に行く人がどれだけゐると思ひますか。テレビの中繼(幕下以下はなくなるさうですが)を見ても、幕下以下は客席ががらがらなのがわかると思ひます。「力士養成員」は、文字通り養成されてゐる立場なのだ。
アメリカのプロ野球においてもメジャーリーガーとマイナーリーガーではその待遇が天地ほどにもちがふ。稼ぐ(球團の收入に貢獻する)立場とさうでない(球團の收入に貢獻しない)立場のちがひだらう。角界とておなじことだ。
竹熊健太郞さんはtwitterで「十両は年収400万程度に止めて、そこから出世する毎にどんどん上げていけばいいのでは。十両で一千万超は多過ぎる。 」とつぶやいてゐたが、さきに述べた構造からして、十兩の年收が多すぎると言へるだらうか。現在幕內の定員は42名、十兩の定員は28名。あわせて70人しかゐない。膨大な人數の力士(養成員をふくむ)のうち、關取はたったの70人なのだ。力士總數は場所ごとに增減はあるが、約700人。その一割にすぎない。もちろん多くの者は數年で見切りをつけてやめていくのだから、關取にまで昇進できるものは入門者のほんの數パーセントにすぎないのだ。私見ではそこまでなった者に對して、いまの十兩の報酬は少なすぎるぐらゐだと思ってゐる。拘束時間などから考へれば、力士は世界でもっともめぐまれないプロスポーツ選手、といふ聲さへある。
くりかへす。十兩と幕下の待遇差を小さくしてはいけない。それは八百長の動機であっても、本質的な原因ではない。結果の平等を目指して、生產性の低下を招いた舊社會主義國の例もある。なすべきはその待遇差をいかに發奮材料とするやうにしむけるかだらう。

トノサマガエルって東京にゐるの?

氣象廳の「生物季節觀測」の對象からホタルとトノサマガエルを除外するとの報道がありました。共同通信47newsの記事をリンクしておきます。
その記事によると

 トノサマガエルの初見日(初めて観測した日)は東京や名古屋、大阪などの気象台や測候所計17カ所、ホタルの初見日は12カ所で観測項目からの除外が決定。除外対象は、さらに増える可能性があるという。

とのことですが、そもそもトノサマガエルって東京には自然分布してゐないのではありませんでしたっけ。東京で一般にトノサマガエルと呼ばれてゐるのは實はダルマガエル(トウキョウダルマガエル)のはずなのですが。
ここで言ふトノサマガエルって、ダルマガエルのことなんでせうか。
くわしいかた、敎へてください。

大相撲はこの際、膿をすべて出せ

去年、大相撲界をゆるがした野球賭博事件の搜査過程で、八百長の物證といふべきメールが復元されたといふことで、大きく報道されてゐます。
八百長があきらかになったといっても、わたしは別段おどろいたりしません。わたしに限らず、好角家はだれもおどろいたりしてはゐないのではないでせうか。大相撲に八百長乃至は星の貸し借りがあるのは常識のやうなものです。「八百長」の語源が相撲に關係があることも廣く知られてゐることでせう。
野球賭博のときもさうでした。相撲取りが博打好きなのはあたりまへだし、角界とやくざ、もしくは俠客が密接に關係してゐるのも歷史的に當然のことです。相撲にかかわらず興行とやくざといふものは切っても切れない關係があるのですが、特に相撲の場合は力士そのものと俠客が同根ともいふべきところがありますから。だからこそ「め組の喧嘩」なんかが起こるわけですね(火消し・鳶も廣義の俠客である)。
だからといって、野球賭博事件も八百長も、わたしは擁護しようとは思ひません。江戶・明治のむかしならともかく、財團法人として稅制面その他において優遇措置を受けてゐる現在においては、認められることではないでせう。現在、特例財團法人である日本相撲協會は平成25年11月30日までに公益財團法人になるか、一般財團法人になるかをえらばなければなりません。一般財團法人となってしまへば、稅制上の優遇措置の不適用はおろか、公益目的財產額を保有しつづけることはできなくなってしまひます。さうなると國技館の土地も國に返上しなければならなくなってしまひます。
公益財團法人になるためには國の認可を受けなければなりません。「暴力團ともつきあいます。八百長もやります。だけど公益法人として稅制その他優遇は受けさせてください。」といふのが通らないのはあたりまえです。
わたしは保守主義者ですから、角界は傳統をまもってほしい。しかし、傳統をまもるといふことは、なにも變はらないことではありません。エドマンド・バークも言ふやうに、保守するためには改革が必要なのです。映畫「山猫」でもタンクレディが「We must change to remain the same.」と言ってゐます。
變はるための時間はこれまでたっぷりあったはずです。いまどき八百長が發覺するといふのは、それにもかかわらず變はる努力をしてこなかったといふことにほかなりません。おそくとも、みづからも中盆でもあった元板井關の講演があったときからでも八百長撲滅の努力をするべきだったのです。
それなのに元板井關の發言を默殺するやうな擧に出たり、週刊現代記事に對して民事訴訟を起こしたりして、事態を糊塗するだけでした。
もう自分の尻に火がついてゐたにもかかはらず、それに氣がついてゐなかったのです。
おそらくもうこれが最後のチャンスでせう。八百長をはじめ、角界の暗い面をすべて出し切らなければいけません。
つよい批判も受けるでせう。ことによっては本場所の開催自肅さへも考へざるをえなくなるかもしれません。
それでもこの際、徹底的に自己改革をしてほしいのです。角界が傳統をまもって、變はらずに生き殘るためにはみづから變はらなければならないのです。
相撲好きの一人として、ぜひともさうやって、變はらずに生き殘ってほしいと心からねがひます。

さういふのは「同工異曲」とはいはない

先日、アニメ版の「月光仮面」(「正義を愛する者 月光仮面」)に關して確認したいことがあって、Wikipediaをひいてみた。さうしたら、その主題歌『月光仮面は誰でしょう』について、つぎのやうな記述があった。

テレビドラマ版とは、同工異曲である。

え、同工異曲?
手もとの辭書をひいてみませう。

同工異曲 (1)つくり方の手ぎわはおなじで、おもむきがことなること。(2)表面がちがうようで内容はおなじであること。

どちらの意味なんでせうね。いえ、どちらでもないのでせう。御存じのかたも多いと思ふが、アニメ版の主題歌はドラマ版と詞はおなじ(嚴密には語尾がちがったりする)で、曲はあらたに作曲したもの。どうもこの項目の書き手は「詞はおなじで曲はちがう」といふのを「同工異曲」といふと思ってゐるらしい。
Wikipediaは基本的にだれでも自由に執筆できるため、普段固目の文章を書きなれてゐない人が書くこともあるゆゑか、變な言ひまはしを目にすることがままあるけれど、これはちょっとひどいなあ。といふより、むしろ笑ってしまひました。

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