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2010年6月に作成された記事

電車内で見た不思議な光景

一昨々日のこと。仕事が早めに終ったので、まだ明るいうちに歸宅の途についた。電車もあまり混んでをらず、なんとか坐ることができた。車輌のはしの方の三人がけの座席だった。
ふと車輌連結部を見ると、一人の男が入ってきた。となりの車輌からこちらの車輌に入ってきたのではない。車輌と車輌の連結部に入ってきたのだ。
連結部に入ると、そのドアの上部のガラス部分に風呂敷みたいな布を暖簾のやうに吊り下げる。といっても窓が完全に隱れるやうなかたちではなく、こちらから少し見える隙間があった。
布をかけ終はると、男は連結部に坐った。御存じのとほり、ドアの下の方は金属製なので下半身は見えなかったけど、正坐をしてゐるやうな雰圍氣だった。そしてそのドアと、かけた布のせゐではっきりとはわからなかったけれども、なんか拜んでゐるのかな、といふ感じだった。
あれは一體なんだったんだらう。なにをしてゐたんだらう。さすがに不氣味だったので、わたしもわざわざドアちかくによってのぞきこむ氣にはなれなかった。しかし車輌間を移動しようとする人がいたら邪魔だっただらうな、とはおもうが、もし移動しようとする人がゐたとしても、やっぱり不氣味なのであきらめてしまふだらうな。
それにしても本當にあれはなんだったんだらう。

恆例「社会派くんがゆく!」Vol.101へのツッコミ

イヤな恆例だなあ。といふのはともかく。
昨日、豫告より一週間遲れでやっと「社会派くんがゆく!」Vol.101が公開された。それにしてもこの對談って、豫定日に公開されたことがないのではないか。なんのための豫定日なんだか。一日や二日遲れるぐらゐならともかく、あまりにいい加減だとしか言ひやうがない。
今回もあいもかわらずめちゃくちゃな内容だったので、一讀して氣になったところだけ指摘しておく。

唐沢 まったくの噂だけど、アメリカ留学時代にドラッグやっていた事実をばらすぞとCIAに脅されていたなんて話もある(笑)。 普天間でああまで簡単に自説を撤回したのはそれが怖いからだって。ま、それは怪情報にせよ、80年代にカリフォルニアにいてドラッグやってないヤツがいたらそれこそモグリだったから(笑)、当然経験はしてるんだろうね。そこで人格に深い障害を遺したってことも、あり得ない話じゃない。
⇒鳩山前首相は1976年スタンフォード大學大學院博士課程修了、同年より東京工業大學助手。つまり、80年代にはカリフォルニアにはいない。

唐沢 それで突っ込まれると「私だって一生懸命やってるんだ!」みたいなことを言う。最近の企業の社長とか責任ある立場の人たちって、どうしてすぐ突っ込まれると「一生懸命やってるんだ!」みたいなこと言い出すのかね。「一生懸命やってる」のはそりゃわかってるよ。だけどそれがいい結果を残せていないんだから、じゃあどういう対処をしたらいいのかを、こっちは訊いているだけなのにね。 いまだに日本のトップクラスは司馬遼太郎を愛読書にあげるけど、あの人はそういうがんばるだけの無能者を一番嫌った人じゃない。“乃木大将がそういうタイプの無能者だった”“無能者をトップに据えてはいけない”と、乃木信奉者から苦情を言われるくらいしつこく書いていた。みんな、こういうところを読み取らないのか?
⇒出すはずの佳声先生の本はいつまでたっても完成しないし、自家撞着だらけの本を語りおろしでつくっちゃふし、おなじ雜誌の連載に以前載せたのとほとんど同一の原稿を載せちゃふしと、なに一つ一生懸命やってゐない人にこんなこと言はれてもなあ。

村崎 口蹄疫もオレの頭の中には、ベンジャミン・フォードばりの陰謀説が電波でいくつも飛んできていてさ、この騒動はアメリカが普天間問題の早期解決を迫って日本政府にプレッシャーをかけるためにばらまいた細菌兵器説とか、米国産牛をもっと日本に輸入させたいからやったんだろうとか(笑)。
⇒×ベンジャミン・フォード ○ベンジャミン・フルフォード

唐沢 クジラ捕るなとかいってるのは、要するに毎度のことだけど、キリスト教原理主義団体だからね。シー・シェパードのことをネットじゃ“海犬”とか書いているけど、シェパードというのは犬のことじゃなくて、その語源である羊飼いのことだよね。聖書の中では羊飼いは神に最も近いところにいるしもべなんだ。そういう名を名乗る連中が、聖書に“神の使い”として書かれている“大いなる魚”をクジラのことだと勝手に解釈して、これを捕ることに反対している。例のアグネス・チャンの『日本ユニセフ協会』も、バックは『キリスト教婦人矯正会』というバリバリの集団で、児童ポルノの取締りは聖戦と思ってやっている。ここらへん、“表現の自由”を盾にいくらとろうが、まず話は通じないと思うねえ。自由そのものを神への冒涜と考える連中なんだから。
⇒捕鯨反對をとなえてゐるのはキリスト教原理主義團體だけではない。それともなにか、歐米諸國の大半が國を擧げてキリスト教原理主義だとでもいうのかね。

唐沢 オレ個人としては、エロは正当性を謳った段階で力を失う、と考えているんだが、しかし今回の条例に徹底して反対なのは、その規制のバックにあるものが限りなく不透明だからなんだよ。実を言うと人間にはある種の活字信仰みたいなものがあって、書籍というものを神聖視する本能のようなものがある。本と他の紙ゴミは自然に分別したくなるのもその表れだ。逆に言うと、本を廃棄したり燃したりといった行為は人をかなりヒステリックな状態にかりたてる力を持っている。いわば国民をある特定方向へ動かそうとするときに、焚書・禁書というのは効果的なプロパガンダなんだ。“しずかちゃんの入浴シーンが見られなくなるからハンターイ”ではすまない問題が背後にある、ということを考えておかないといけないよ。
⇒だからエロの正當性をうたってゐるわけではないんだって。これが表現に對する規制の入り口になったり、作者や出版社の畏縮をまねいたり、條例が恣意的に運用されるおそれがあったりするから問題なんだって。だれも“しずかちゃんの入浴シーンが見られなくなるからハンターイ”してゐないって。

村崎 それから、今月は政局に目を取られがちだけど、けっこういい事件がたくさん起こってるんだよ。まず、土木作業員の父娘がストーカー相手の祖父を殺して放火強盗したという事件が千葉県の八街市八街(やちまたしやちまた)で起こってるんだけど(★6)、テレビでアナウンサーがこのニュース読み上げるたびに、どうしても「やっちまったし、やっちまったでぇ~」って聞こえちゃうんだよ、そのたびに爆笑だ(笑)。
⇒爆笑といふのは大勢の人が一齊にどっと笑ふこと。村崎さんはニュースをパブリックビューででも見てゐるんですか。

村崎 また、大相撲、賭博だのヤクザだの、バカな騒動が起こってるよな。だいたいヤクザだろうが何だろうが、見に来てもらえるだけ有り難いと思った方がいいぞ、今の相撲は。っーか、別にヤクザが相撲観戦したっていーじゃん(★12)。ちゃんと金払って大人しく見てる連中を「ヤクザだから」のひと言で追い出す方がひどくないか?
唐沢 興行の利益が暴力団資金に回ってたってんならともかく、単にヤクザが普通に金払って見てたってだけなんだから、どこが問題なんだって思うよね。そもそも江戸時代の昔から、興行ものにヤクザはつき物なんだし。

⇒問題のヤクザは普通の客席にゐたんぢゃないよ。維持員席にゐたんだよ。維持員席のチケットは讓渡不可なんだよ。しかもその讓渡に親方がかかわってゐたから問題なんだよ。「単にヤクザが普通に金払って見てたってだけ」ぢゃないんだよ。新聞記事でもニュースでもいいからすこしぐらゐ見たらどうかね。

村崎 幻想だろうが何だろうが、これで「ある種の幸福を生み出している」と考えれば、宗教と同じで、まんざら悪いことでもないんだろうな。AKB48って、敷居が低くて、金だせば握手会とかで手も握ってくれるアイドルなんだろ? 古参のファンは直筆の手紙とかもらえるらしいし、まさに80年代のオールナイトフジからおニャン子クラブを通って今日に至る秋元康のアイドルビジネスの完成形て感じだね。
⇒敷居が高いといふのは不義理や不面目などのために訪問しにくい、といふ意味ですよ。かういふ場合に使ふのは(結構使ってゐる人も多いけど)誤用です。

といふわけで、今回も事實誤認と日本語力の不自由さが目立った「社會派くん」でした。

※以前の「社会派くんがゆく!」關連記事
唐沢俊一氏は大阪のことを書かないほうがいいと思う
今月の「社会派くんがゆく!」の明確なあやまり
今月の「社会派くんがゆく!」
たびたびで悪いが、「社会派くんがゆく!」につっこみを
ひさびさに「社会派くんがゆく!」に突っ込んでみる
チベット問題は相對化できない
今月も突っ込みどころ満載の「社会派くんがゆく!」
ひさしぶりに「社会派くんがゆく!」につっこんでみようか
「社会派くんがゆく!」Vol.95へのツッコミ
今月もでたらめな「社会派くんがゆく!」
「社会派くんがゆく!」Vol.99についてちょっとだけ
おそくなったけど、「社会派くんがゆく!」Vol.100に對する簡單なツッコミ

長文雜記

いや、いつも雜記なんですがね。別のタイトルで書き始めたんですが、書いてゐるうちにどんどんちがう方向に走っていったので、意味のないタイトルにしてみました。
さて、本文。
『たぬきちの「リストラなう」日記』といふブログがある。といふか、あった。過去形なのは、一應5月末をもって終了してゐるからだ。ただし、正確に言ふと最終エントリは6月1日の投稿だし、しかも6月2日に追加エントリの投稿があったのだけど(後述)。
このブログは「都内のわりと大手と思はれる出版社」(としか書いてゐないが、あきらかに光文社)ではたらいてゐるたぬきちさんが以前から別のタイトルで書いてゐたものだが、勤務先が3月中旬に希望退職の募集をはじめ、それに應募することにきめてからタイトルを變更して、退職日である5月末日まで限定で自分と勤務先のリストラ關係のことを書いてゐたものだ。
粗忽亭は本といふものが大好きで、ジャンボ寶くじにでもあたったらとっとと仕事をやめて本だけ讀んで暮らしたい(いや本當は音樂も聽きたいしネットものぞきたいので“だけ”といふのは誇張ですが)やうな人間なので、出版社まはりのことなんかについてもなにかと興味がある。
ここ數年は出版不況の聲は耳にたこができるぐらゐ聞こえてくるし、今年はまづまちがひなく「電子出版元年」になるだらうと言はれてゐる。もう出版社も從來のビジネスモデルが通用しなくなってきてゐる。だからこそ光文社でもリストラをやるわけだ。そんな出版社の内側にいる人の生々しい聲が聞けるといふのはなかなかない機會だ。そんなわけでこのブログの存在を知ってから、ずっと讀み續けてきた。
出版社のかかへるいまの問題點の指摘や、將來への提言(といふほどはっきりしたものではないが)などは興味深かった。しかし、讀んでいくうちにもう一つおもしろいところが出てきた。それはコメント欄だ。なにがおもしろいかと言って、それはたぬきちさんの書いてゐる内容(あるいは方向性)とコメント(もちろん一部の、ですが)とのズレがおもしろかったのだ。ああ、俺ってつくづく性格惡いなあ。
たとへば、光文社は希望退職者にとても優遇された條件を用意して、しかもいはゆる肩たたきなどもなく、みづから手をあげる人だけをきちんと會社都合退職としてゐる。たぬきちさんもこの機會にまったくみづからの意志で退職をえらんだのだけど、「安易に退職を受け入れてはだめだ」とか「個人加入できるユニオンに入れ」とかいふ聲があったりした。
まあ、「リストラ」といふタイトルのために心ならずも退職に追ひ込まれる、といふふうに受け取っちゃったのかもしれないけど、きちんと本文を讀めばさういふものではまったくないことがわかると思ふのだけど。
それからこのブログを會社に對する告發だと受け取ってゐる人が多かったのもおもしろかった。たぬきちさんには會社に對するうらみもつらみもなく、感謝と愛情をいだきつつやめていくのだとしか粗忽亭には受け取れなかったのだけど。
コメント欄の風向きがかはってきたのは、たぬきちさんが自分の年收や、今回の早期退職の條件などを書いてから。たぬきちさんはいま四十代なかばで、年收は千數百萬圓、といふところらしい。そのあたりが書かれてから、やたら批判的な、といふよりはヘイトコメントが多くなってきた。いやー、金錢に關する嫉妬ってコワいねー。それに價するほどの仕事ぢゃないだらうとか、それにくらべて書店や、印刷業や、あるいは著者は安すぎるとか。多くの場合は自分とくらべてたぬきちさんの惠まれぶりが氣に入らない樣子だった。
いや、これはたぬきちさんを批判したってしかたないだらう。そりゃたしかにこの年收は決して低い額ではない。でも、たぬきちさんは高額の給料をはらう光文社に入社を希望して採用されたのであり、粗忽亭をふくめてさうぢゃない人は光文社に入社を希望しなかったか、あるいは希望しても採用されなかったのだから、それをねたんでもしかたがない。
はなしはかわるけど、國立大學の授業料はむかしはとても安かった。學生が數日アルバイトすればかせげてしまふ程度の額だったりした。いまは高くなったとはいへ、それでも私立にくらべるとまだ安い。それでゐて國立大學の方が教育條件は良かったりする。教員一人あたりの學生數とか。しかも、たとへば東京大學なんかだと、その安い學費でこの分野では日本一、どころか世界一、なんて教員の指導を受けられたりする。
これについて、「俺は私立の××大學生だが、講義はマスプロだし、教授にろくな人材もいない。それなのに授業料は東大の方が安い。東大生はケシカラン。」と言ってもしかたがない。だって、その人は東大の入試を受けなかったか、受けても合格しなかったのだから。それとおなじことだと思ふ。
それよりもなによりも光文社の給與水準に驚いてゐた人が多いのが粗忽亭には意外だった。だって大手の、あるいは歴史のある出版社の給料が高いのは周知の事實だと思ってゐたから。それが善い惡いではなく。私などは光文社クラスなら四十代で二千萬圓ぐらゐはあるかと思ってゐたので、むしろ意外に少ないのね、と思ったぐらゐだ。
それで、そのへんが一段落したと思ったら、今度はたぬきちさんが會社のことを書いてゐるのは守祕義務違反だのなんだのと騷ぎ立てる人がちらほら。でも、さういふコメントを書く人が、具體的にどこが守祕義務違反だと指摘したものは見かけなかった。そもそも光文社の希望退職募集は對外的にも發表されてゐるのだし、それ以外の記事内容も「業務上知り得た祕密」に該當すると思はれるものは無いと思ふのだけど。勤務先のことをいろいろ書くと氣まづい、といふのはあるだらうけど、氣まづいのと守祕義務違反とはちがふ。第一、たぬきちさんの同僚の多くが、すなはち會社側もこのブログの存在を知ってゐるのだから、本當に「守祕義務違反」に相當することがあれば會社の方がアクションを起こすはずであり、他人がとやかく言ひ立てることではない。粗忽亭はこのやうになんでもかんでも「自肅」させようとする風潮が大きらいだ。かういふのは一種の檢閲みたいなものだ。まあ亞檢閲とでも言はうか。
日本の戰前の檢閲は國家が強權をもっておこなったものだが、その分はっきりしてゐた。基本的に軍や天皇に關すること、共産主義思想をほめたたえるやうなことはアブナイけど、それ以外はたいていなにも言はれない。それにくらべて現代の亞檢閲は國家でもない、強權も持たない一個人や民間團體などがそれとなく壓力をかけてくることが多い。これは著作權侵害ぢゃないかとか、名譽毀損になるかもしれませんよとか。とても陰濕な感じがある。
新聞雜誌の記事だらうが個人ブログだらうが、さういふリスクは筆者(新聞雜誌記事および書籍等は新聞社、出版社等も)が覺悟して引き受ければよい話であって、他人がとやかく言ふものではない。その記事によってなんらかの權利が侵害されたとか、自分の名譽が毀損されたとか思った人がいたら本人が筆者や出版社に抗議したり交渉したり、それでもらちがあかなかったら、訴訟を起こすなりすればよいだけのはなしだ。
それかあらぬかブログなどネット上の個人的な文章でもやたら伏字を多用する人がいるのも見苦しい。伏字などといふものは權力側から強制された場合、あるいはその介入を未然にふせぐためにやむなくおこなうものだ。それも戰前のそのての出版物などを見たらわかるとほり、數ページにわたってほとんど全文とか、段落丸ごととか、肝になることばを片っ端にとか、とにかく、少なくとも豫備知識なしではなんのことかわからないぐらゐに削ってしまふものだ。ミッキー○ウスとかマイ○ロソフトとかのやうにだれでもわかるやうな伏字なんか見苦しいだけでなんの益もない。まあ半分洒落でやってゐる場合もあるのだらうが、おもしろいとも思へない。このてので感心したのはセ○ラ○ム○ンといふ伏字ぐらゐだ。一文字おきに伏字にしただけのやうに見えて、伏せた部分は全部長音記號だもんね。これを見たときは笑ったなあ。
なんかはなしがあっちこっちに飛んでゐるが、もとにもどして。「リストラなう」のはなし。
とにかくさういふ批判的なコメントもほとんどなくなってきて、最終的には好意的なものがほとんどにおちついてきた。そんな中、前述のとほり、6月1日の記事をもって最終回をむかへた。はずだった。
ところが6月2日に『【お知らせ】「リストラなう」にコメントを寄せてくださったみなさまへ【とても重要】』といふエントリが掲載された。内容は(1)「リストラなう」が新潮社から書籍化される。 (2)その際にコメントの一部も收録したい。 (3)コメント不掲載希望の人は指定の方法(結構面倒)で申し出てくれ。 といふやうなこと。
いやー、さうするとそのエントリにコメントがつくわつくわ。ほとんどが批判コメント。
ブログが出版されるといふことそのものに對して怒ってゐる人。すべてが企劃だったのか、とか言ってゐる人。そしてもっとも多いのが一件一件承諾をとることなく、不許可の人だけ申し出よといふ方法に對する文句。法的にあぶないよ、といふ人も。いやしかし版元は新潮社だよ。あの『電車男』の。『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』の。そっち方面の經驗は積んでゐるし、著作權に強い顧問辯護士もかかへてゐるはず。それ以前に法務部門もしっかりしてゐるよ。でなければ週刊新潮なんかこわくて出せるはずがない。たぬきちさん個人に辯護士をつけるやうすすめる人もいたけど、そんなことよっぽど賣れっ子の作家でもないかぎりやりませんよ。そんなことしてゐたら印税なんか全部ふっとんぢゃふ。ましてや職業作家ぢゃない(継續して文章書きで生計を立てるわけではない)人がそんなことしませんって。出版物の内容(著作權關係であれ、名譽毀損等であれ)で問題があるときは著者と發行者との兩者が責任を問はれるのが普通だから、個人でいちいち心配して對策をとってもしかたありません。そのための出版社の法務部門であり、顧問辯護士なんですから。
批判してゐる人は、かつてヘイトコメントをつけた人、自分のコメントが利用されるのがおもしろくない人、このブログが出版されてたぬきちさんや新潮社の利益になるのがおもしろくない人、等々いろいろあるやうだが。
それにしてもネット環境さへあれば世界中どこからでもタダで讀めるブログにコメントを載せておいて、ときには匿名で口汚い批判を書いておいて、人の目にふれるハードルがはるかに高い書籍に載せられるのはいや、といふメンタリティーが理解できない。そもそも一度書いて發表(ブログへのコメントもそれに該當する)してしまった文章といふものはある意味筆者の手をはなれてしまふ。もちろん著作權がないといふ意味ではないよ。綸言汗の如しではないけれど、取り戻すことはできないのだし、それ相應の責任が付隨する、といふことだ。それをある出版物で補助的につかわれても文句をいう筋合ひではない、といふのが(法律論とは別の)粗忽亭の感覺なんだがなあ。
上記の『電車男』や『ブラック會社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』や『世界極上ホテル術』なんかとちがって著者本人の文章がメインで、コメントは添へ物にすぎないのだし。書いて發表したものに對して、それが自分の意圖せざる利用だといへど、もう書いてしまったものはしかたがない、と思ふのだけどね。
そんなわけで粗忽亭があちこちに書き散らしてゐるコメント(「リストラなう」には書いてゐません)がさういふものに收録されるやうなことがあっても一切文句は言ひません。また、粗忽亭日乘へのコメントも、書籍化の際には收録されてしまふかもしれないと覺悟のうえでお寄せください。って、そんな可能性は一恆河沙に一つもありませんが。あ、だれですか、一不可説不可説轉に一つもないと言ってゐる人は。

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