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2010年3月に作成された記事

角ハイボールのポスター

最近、サントリーが角ハイボールの罐入りをヒットさせ、ハイボール復權のうごきがあるさうです。あひかはらずサントリーの宣傳上手には舌を卷きます。
昨日夕食をとった食堂にも角ハイボールのポスターが貼ってありました。一見しわが入ったやうに見える背景印刷に角甁の繪。大きく「いざ!とりあえず!角ハイボール」の見出しは古風な活字。本文はつぎのとほり。
 美味しいハイボール。其れはキンと冷えております。
 其れはソーダ水のシュワシュワが生きております。
 更に!ソーダ水におぼれない角のウマ味が活きている。
 此れぞ美味しいハイボール。
 一口飲めば言ひ知れぬウマ味が広がります。
 注文は、どうぞ「角ハイ」とご指名で!
全體にレトロっぽい雰圍氣なので、「言ひ知れぬ」と正かなで書いたのでせうね。しかし「とりあえず」「冷えております」「生きております」「ウマ味が活きている」は新かな。さういふ中途半端なことなら、無理に正かなをつかはない方が良いのにねえ。このコピーを書いたやつも、そのまま通した廣告代理店も、採用したサントリーの宣傳部もみんな馬鹿。だれひとりこんな初步的ミスに氣がつかないのだから。せめて辭書ぐらゐひいてみればよいのに。

熱血!ボカンバトル

一昨晚、友人と電話で話してゐたら、「NHKの『熱血!オヤジバトル』を見て寢る。」と言ふ。そこでわたしが「あ、昨日(15日深夜放送分)の一部をたまたま見たよ。ちゃうど見てゐたとき出てゐたバンドの演奏だけど、、イントロ部分がメロディも、それ以上にギターのエフェクトの音もタイムボカンシリーズのBGMみたいだった。」と言ったら、「あ、あれね。さういふのあった。」としっかり同意された。わたしだけの印象ぢゃなかったんだね。
ちなみにその友人は音樂學校出身です。
「世代的にみて、無意識にあのへんの音樂の影響を受けてゐるのかも。」と言ってゐました。
本編に入るとわりと普通のロックだったんですけどね。ボカンの影響、おそるべし!かな。

今月もでたらめな「社会派くんがゆく!」

「社会派くんがゆく!」Vol.98が揭載されました。今月もでたらめ滿載!なので、いくつかつっこんでおきます。

村崎 そうか(泣)。前にも言ったけど、あいつらは牛や豚の肉ばっか食ってるからいつまでもバカで家畜じみた奴隷根性しか持てないんだよ。日本人が優秀なのは昔から知性が高い鯨を食ってきたからで、最近日本人の中にバカが増えたのは鯨肉を食わなくなったからだって声高に主張すべきなんだよ!
⇒日本人が鯨を日常的に、大量に食べるやうになったのは大東亞戰爭後なんですけどね。

村崎 近頃の若い女の子がそんなに簡単にヤラせてくれるわっきゃねーよ。真央ちゃんは未成年だから犯罪になっちゃうしなあ……あ、キム・ヨナも同い年なのか。
⇒浅田真央選手も金妍兒選手も19歲なんですが。靑少年保護育成條例の對象って、18歲未滿のはずですが。

唐沢 ネットでも真央信者みたいなのがいて、「栄光とはそもそも浅田真央の頭上に輝くべきものである」とか、宗教がかっていて何だか気味が悪いんだよ。
⇒そんなの見たこともありません。いま檢索してみても「社會派くんがゆく!」以外にひっかからなかったし。

唐沢 韓国なんかは完全に国威掲揚のためだから、採点競技はキム・ヨナに任せて、ほかの競技はきっちり記録を出せる選手ばっかり揃えているよね。
⇒意味がよくわかりません。日本はフィギュアスケートのやうな採點競技とスピードスケート等とおなじ選手が掛け持ちで出てゐたとでもいふのでせうか。

唐沢 デイブ・スペクターが珍しく的を得たコメントをしていて
⇒「的を射た」あるいは「當を得た」。

唐沢 要するに常に、誰かを叩くことでしか自分を保つことのできない日本人がそれだけ増えているってことだよ。不景気にしろ自殺者増加にしろ、原因がひとつに特定できないような現象でも、無理やりにでも仮想敵をひとつ作り上げて、そこをひたすら叩くことでしか安心できないような、可愛そうな連中なんだよ。
⇒それは御自分を批判してゐる人に對するいやみでせうか。

唐沢 いや、石原みたいな奴は円谷選手みたいな最後を“武士の本懐”みたいな形で絶賛するんだろう。実際、円谷の遺書の内容を川端康成が絶賛していたからね。川端康成、三島由紀夫、石原慎太郎、ここら辺で受けつがれているメンタリティにはどうしても男色的な匂いを色濃く感じてしまうな(笑)。
⇒川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』でかう書いてゐます。
「繰り返される《おいしうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」
つまり川端は円谷選手の遺書の文章(表現)をほめたのであって、內容をほめたのではありません。

唐沢 ただ、こういう衝動に突き動かされて行動する人間ってのは自己の衝動に忠実であるわけで、生態系の法則なかでは認められる存在ではあるんだよ。闇雲に欲求に沿ってムチャクチャやるような個体がときどき出てこないと、生物ってのは進化しない。変化のない状態を苦痛と感じる者がいるってのは、生物の一つの種が生き残るために、ある種のパーセンテージで出現させている、多様性の一つであるわけなんだ。
⇒そんな進化論、聞いたこともありません。あたらしいカラサワ學說でせうか。

村崎 その意味じゃものすごく動物的っていうか、この二人の関係ってもう恋愛ですらないと思うのね。恋愛って性欲や生殖衝動の口実や言い訳みたいな側面もあるけど、知性ある人類として、ある程度余裕のある現在では、それだけじゃないものがあると信じたいじゃない? 単なるエゴや性欲と恋愛との大きな違いは、自分のことよりも相手の存在や立場や幸福を優先して考えられるかどうかにかかってると思うわけ。相手のことを考えずに自分の欲望を優先させるのは愛じゃなくてただのエゴでしょ? 昔、吉田拓郎が「あの人のための自分などといわず、あの人のために去り行くことだ」って歌ってたけど、本当に人を愛するってのはそういうもので、このバカはそういう発想からは百万光年も遠い所にいたような気がするよ。女の子をダンベルで躊躇なく殴って、なおかつ別れたくないのも愛だなんて主張は、どう考えても単なる身勝手なエゴだろ?
唐沢 でも本来はDNAは利己的なもの、自分の遺伝子を残せればそれでいいっていうものなんで、自分の言いなりになる女を暴力で支配するっていうのは動物としては理にかなっていることなんだよね。

⇒村崎さんは、この行動は「動物的」であって、「知性ある人類」の行動とも思へない、と言ってゐるのに、なぜ唐沢さんのこたへが「でも本来はDNAは利己的なもの、自分の遺伝子を残せればそれでいいっていうものなんで、自分の言いなりになる女を暴力で支配するっていうのは動物としては理にかなっていることなんだよね。」になるのでせうか。村崎さんは、それでは本能につきうごかされるだけの動物とおなじで、それを知性(理性)でコントロールする人間の行動ではない、と言ってゐるのに。全然會話がかみ合ってゐません。

唐沢 いや、だから“間違えた”っていうより、これが人間の真の姿なのかもしれないって、オレなんかは思うんだよ。メスの取り合いで殺しあうってのは、生物のオスの本性に根ざした行為でしょ。そこに「そういうことをしちゃいけない」っていうルールを作って人間社会は進化を遂げてきたわけだけど、こういう事件を見ると、「人間だって所詮動物なんだから、これ以上進化しなくていいよ。野性に戻れ」って神様に言われているような気がしないでもない。
⇒どうして「人間だって所詮動物なんだから、これ以上進化しなくていいよ。野性に戻れ」ってことになるんですかね。それぢゃあまるでこの事件が素晴らしいものであったみたいぢゃありませんか。

唐沢 女の子を線路沿いに寝かせてその上を電車が通り過ぎるようにして、自分はホームの下にすぐ隠れたっていうんだよね。いやはや、この咄嗟の判断は見事。『報道ステーション』でこのニュースを流したとき、アシスタントの女性キャスターが「これで恋が芽生えるかもしれませんよね」とかロマンチックなことを言い出して、横で古舘伊知郎が唖然としていたのが可笑しかったけど(笑)。
村崎 女の子のほうは後で何べんも謝って帰って行ったそうだし、そんな余裕もねえよなあ。
唐沢 ベロベロに酔っ払って線路に落ちるような女に恋するようなシチュエーションなんてありえねえっての(笑)。

⇒そのときの『報道ステーション』はたまたま見てゐましたけれど、女性キャスターは「たすけられた女の子がたすけてくれた男の人に惚れてしまふかもしれない」といふニュアンスのことを言ったんですよ。男のはうが女の子に戀をするかも、なんて言ってゐません。言ってもゐないことにつっこまれても、女性キャスターもこまってしまふでせうに。

といふところで、一讀して目についたところだけなんでまだまだあるでせうけど、いそがしいので今回はこんなところで。


※以前の「社会派くんがゆく!」關連記事
唐沢俊一氏は大阪のことを書かないほうがいいと思う
今月の「社会派くんがゆく!」の明確なあやまり
今月の「社会派くんがゆく!」
たびたびで悪いが、「社会派くんがゆく!」につっこみを
ひさびさに「社会派くんがゆく!」に突っ込んでみる
チベット問題は相對化できない
今月も突っ込みどころ満載の「社会派くんがゆく!」
ひさしぶりに「社会派くんがゆく!」につっこんでみようか
「社会派くんがゆく!」Vol.95へのツッコミ

「女子」といふことば、「男子」といふことば

ネットニュースなんかで「女子」といふことばが使はれてゐたときに、その「女子」がたとへば三十代だったりすると、「もう女子ぢゃないだらう」などとコメントしてゐる人をよく見かけます。「いくらなんでも女の“子”とはいへないだらう」といふことのやうです。
そんなことを書いたことのある人、またはそれに共感してゐる人は手許の辭書を引いてみてください。もちろん辭書によって表現および順番にちがひはありますが、おほむね次のやうに書いてあるはずです。
(1)をんなのこ。娘。(2)をんな。婦人。
つまり「女子」といふことばで成人女性とか中年女性とか、場合によっては老女を指してもなんら問題はないのです。「女子」が「をんなのこ」だけを指すと思ってゐる人の方がまちがってゐるのです。
當然、「男子」といふことばも次のやうに出てゐるはずです。
(1)をとこのこ。(2)男性。
辭書によっては以上に加へて
(3)立派な男。勇ましい男。
の意義がのってゐることもあります。「女子」よりも「男子」の方が語義の幅が廣いんですね。
「男子の本懷」といふ語があります。この場合の「男子」は(3)かな、といふ氣もしますが、廣辭苑では(2)の用例として使はれてゐますね。

ふざけるな、連休地域ごと分散化案

かねてより話題?の春・秋の連休を地域ごとに分散化する案だが、朝日新聞東京本社版では、今日の1面に具體案がのってゐた。それによると粗忽亭の勤務地をふくむ南關東では、秋は10月第2週に5連休だと?(平成22年なら9日日曜日から13日水曜日)
ふざけんぢゃねえ。第2四半期決算の一番いそがしいときぢゃねえか。こんな時に連休でござい、と言はれても經理屋が休めるわけないだろう。
これは日本で一番企業が集中してゐる東京近郊の經理屋は大抵おなじことだぞ。日本の會社は三月決算が壓倒的に多いのだからな。
ただでさえ四半期決算制度の導入で、決算がをはったと思ったら次の決算になるみたいで經理屋はみんなひーひー言ってゐるのに、このうへさらに休めないやうにするつもりか。
それ以前にこの案では、複數の地域に事業所のある會社はなにかと混亂するぞ。まさにまともに民間ではたらいたことのないやつらの机上案だ。學者馬鹿に官僚馬鹿に政治家馬鹿。民主黨ブレインにはろくなのがゐない。なかでも福井秀夫政策硏究大學院大學敎授とか。長崎知事選や町田市長選で大敗したぐらゐぢゃ民主黨の目は覺めないらしい。參議院選で大敗して頭を冷やしてほしい。

今後、野村證劵グループは一切信用しない

といっても野村で投資に手を出して大損こいた、とかいふはなしではありません。わたしはそもそも投資や投機が大嫌ひなので、最初っから手は出しません。
ではなぜこんなことを言ってゐるのかといふと、一昨日の朝日新聞be on Saturdayの「フロントランナー」といふ記事が原因。取り上げられたのが「野村ホールディングス社長兼CEO 渡辺 賢一さん(57歳)」。b1面トップの書き出しにかうある。

 過去にしがみつくのが嫌い。上司にも顧客にもこびない。そんな生き方を貫いてきたゆえか、通称「ナベケン」が発する言葉には力が宿る。
 「温故知新なんてウソ。昨日の続きで今日を考えない。今日の続きで明日も考えない。世の中は常に変化しているから」

アホですか。あんた、「溫故知新」って、古いことさへほじくってさへゐれば新しいことに對處できるって意味だと思ってんの?最近の一般的な解釋でさへ、古い物事をしらべて、そこから新しい智識や見解をひきだすこと、とされてゐるんですよ。しかも本來の意味は、一方では古い物事を硏究し、他方では新しい智識も得る、といふことです。原文は「溫故而知新、可以爲師矣」。古いことも新しいことも知って、初めて人の師となれる、といふ意味です。論語爲政篇にある言葉です。意味もわからずよく「ウソ」だなんて言へますね。
そもそも「野村ホールディングス社長兼CEO」がどんなにエラいのかは知らないけど、一介の凡夫に過ぎません。それがどうして中華の長い歷史においてさへ事實上ただ一人の聖人とされてゐる孔子を、そんなに簡單に否定できるんですか。思ひ上がるのもいい加減にしなさい。
だいたい過去を、歷史を學ばずして、どうして將來を、未來を見通すことができませうか。いまの大不況のきっかけであるサブプライムローン問題にしても、リーマン・ショックにしても、日本のバブル崩潰といふ歷史に、米國が學ばなかったがゆゑではありませんか。
「世の中は常に変化している」。そのとほりです。その變化の流れを知るためにも歷史は輕視できないはずです。なんのために歷史敎育があると思ってゐるのですか。
こんな輕佻浮薄な輩がトップにゐるグループを、わたしは到底信用することができません。きっと、遲かれ早かれ歷史に學ばなかったがゆゑの失敗を繰り返すことになるでせう。
ついでに言ふと、b3面に載ってゐたインタビューもひどいものだった。曰く

一緒に世界を回ったギリシャ人が4年前になくなって。当時、外国人社員には社章を渡してなかったんですが、奥さんから生前に欲しがっていたと聞いてね。部下に「なくしたことにして始末書を書け」と言って、手に入れた社章をひつぎに入れてあげました。

なんで部下に「なくしたことにしろ」と言ふんですか。自分がなくした、と言って、自分で始末書を書けばよいではありませんか。もう、この一點だけで私はこの人を信用できません。これを美談のやうに書く記者もどうかしてゐると思ひますけどね。

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