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この方がよっぽど差別ではないのか

朝日新聞7月4日夕刊のbe evening面に掲載された連載「天才の育て方」は「千住博、明、真理子のおかあちゃま 文子さん」の第1回目(asahi.comにも掲載あり)。
わたしは不勉強にして千住博、明、真理子さんの三人とも存じ上げないのだが、記事によるとかういふ方ださうだ。

長男の博(51)は日本画家。京都造形芸術大学学長で、大徳寺聚光院別院のふすま絵も手がけた。次男の明(48)は、映画やドラマの音楽から純音楽まで幅広いジャンルを扱う作曲家。長女の真理子は世界的なバイオリニスト

なんで三人のうち、お一人だけ年齡が記されてゐないんですかね。
え、真理子さんは女だからだらうって。いや、それはわかってますよ。でも、お母樣の方は

3人を育てた文子(ふみこ)(83)

とはっきり書いてあるのに。まったく解せませんね。
そもそも知らない人物のイメージを浮かべるのに年齡といふのはきはめて有用な情報のはずだ。たとへば「このたび芥川賞を受賞した○○さん(20)」と書いてあれば「この若さで芥川賞。早熟の俊英だな。」とか思ふわけだし、「このたび芥川賞を受賞した○○さん(62)」なら「いままでいろいろ苦勞されたかたなんだらうか。あるいは年をとってから小説を書き始めたんだらうか。どちらにしろ人生經驗の重みがありさうだな。」とか思ふわけでせう。
もちろん、一切年齡を書かないといふ立場もあってよい。たとへば先の例なら、その人がすぐれた小説を書いて、先達にみとめられて芥川賞受賞にいたったんだ、といふことさへわかればよいといふのなら、年齡は不要だらう。
しかし、一文の中に年齡ありとなしが共存してゐるといふのは、あきらかに不自然だ。よくはわからないが、女の年齡は書かないのが禮儀、といふわけのわからない「常識」が關係してゐるのだらう(ぢゃあ文子さんはどうなんだよ、とは思ふが)。
これこそ差別ではないのか。どちらに對する差別なのかはわからないが、男と女であつかひがちがふといふことは、あきらかに男女差別ではないのか。
さらに言ふ。女の年齡は書かないのが禮儀といふことになってゐるのだとしたら、それはなにゆゑか。年をとってゐると見られたくない(知られたくない)からか。だとすると、女の高齡者は無價値だといふことなのか。それは高齡者に對する差別であり、女に限って高齡者が無價値だといふのなら、それこそ女性差別といはざるを得ない。
どちらにしろ、不可解きはまる書き方であると思った次第だ。

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