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京都の日本料理店、ミシュラン掲載を拒否

asahi.comの記事より。
掲載を拒否、ってのは言葉のあやです。ミシュランが勝手に評價し、勝手にのせたって文句は言へんだらうし。つまり、「ミシュラン」にのせるための寫眞撮影を拒否してる、ってことです。
これ、思ふに紅白歌合戰とロックミュージシャンみたいなもんぢゃないかな。いまの紅白にどれぐらゐの權威があるのかは知らんけど、かつて視聽率70%とかとってたころの紅白は大變な權威があった。出演するのは一流人氣歌手の證明みたいなものだった。紅白に出るとギャラのランクがはねあがったらしい。特に演歌系の歌手なんかは、地方公演のギャラがドンとあがるので、紅白出演の有無はまさに死活問題だったらう。
しかし、たとへばロックミュージシャンとか、最初からテレビでの仕事をやってゐない、コンサートだって賣り興行でないミュージシャンは紅白に出るメリットは無いにひとしい。紅白のギャラ自體はたいした額ではないらしいし、それでゐてリハーサルなどに長時間拘束されて、自分の出番以外のアトラクションにも參加させられて、っていふんぢゃ、出たがらない人が多くても不思議はない。
この件はそれに似てゐる。
「ミシュラン」はそもそも旅先でのレストランガイド、といった性格のものだ。つまり、はじめて行っても安心な店を紹介してゐる。しかしここで對象にされた京都の日本料理店は、大抵が一見客おことはりだ。ガイドにのせてもらってもメリットはないし、問ひ合はせてくる一見客にいちいち對應しなければいけなくなるのなら、デメリットばかり、とさへいへるだらう。
元記事には料理研究家の服部幸應さんの

世界のグルメが和食を食べに日本に来る国際化の時代。観光都市・京都の名店がミシュランの評価をボイコットするなら残念な話だ

といふコメントものってゐるが、それよりある老舖店主の

フランスの調査員が、我々の文化や伝統を学んでいるとは思えない

といふ意見の方にわたしは共感する。
文化といふものは、本質的にローカルなものだ。よく「世界に通用する文化」などといふいはれ方をされるが、文化なんてものは世界に通用しなくてもよい。もちろん通用しても一向にかまはないが、そのために文化の方からすりよる必要はない。「たまたま」通用してしまったのなら、それもよし、といふ程度でよいのだ。
たとへば漢詩なんてものは、高島俊男先生によれば、日本人がいくら勉強したって四分の一もわかれば御の字ださうだ。それはさうだらう。最低でも支那語ができなければ、詩の音韻的なうつくしさは理解できないだらう。詩の背景には膨大な漢籍の教養もある。そしてなにより、支那人が支那語で支那人としての生活の中からつくるからこそ漢詩なのであって、たとへおなじ漢字を共有してゐるからといって、日本人がおいそれと支那人(の教養人)とおなじやうなものが作れるわけがない。
われわれの文化だってさうだ。フランス人に俳諧を、イギリス人に和歌を、アメリカ人に連歌を評價されたくはないだらう。
文化の方から「世界標準」にすりよるとどうなるか。われはれはすでに「柔よく剛を制する」はずの柔道が力まかせ(ゆゑに體重別)で、さらには一本をとるよりもこせこせとポイントをかせいだ方が有利なJUDOになってしまった例を知ってゐる。
「ミシュラン」にのせてもらへてありがたい、とか言って、「權威」にしっぽをふってゐるよりは、突っぱねてしまふ方がとにもかくにも京都らしい。
わたし個人としては、いちいち紹介が必要なところで飯を食ひたいとは思はないが、かういふ文化もあっていい。京都の料理店の矜持と見識をわたしは支持したい。

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コメント

私も京都の料理店の程度を心から支持します。
自ら世界標準に擦り寄って成功したためしはありません。
日本は文化だけでなく制度も世界標準に合はせようとしますね。
例の児ポ法もさうでせう。

また、日本人は自分自身で価値判断ができないのか、やたら外国(とくに欧米)での評価を判断基準にしますね。
北野武監督の扱ひなんか顕著な例で、映画を撮り始めて初めの頃はボロクソに云はれてゐて、海外で賞を獲った途端、「世界のキタノ」です。
確かに初期に比べて作品の質が上がったのかもしれませんが、海外で評価されたことこそ北野武が天才監督と呼ばれる要因となったとみていいでせう。
漫画やアニメなんかも海外でさかんに評価されはじめて、日本の誇るべき文化だなんて言はれるやうになりましたが(麻生太郎も云ってますね)、それまでは子供に害悪をもたらすものといった認識が主流だったやうに思ひます。
無論、私は漫画やアニメは日本の誇るべき文化だと思います。
だからこそ、漫画・アニメは今後とも決して外国に擦り寄ることのないやうにして欲しいものです。(日本の漫画でも煙草を描かなくするとか)

>あび卯月さん

コメントありがたうございます。
悲しいことに、日本人には文化植民地根性がしみついてゐるやうです。かつては支那に對して。明治以降は西洋に對して。
江戸時代まで、「學問」といへば、漢籍をまなぶことでした。それも漢籍を研究するといふことではありません。その内容を絶對ただしいものと信じて、ひたすら崇拜すること、それが「學問」でした。日本の現實がどうか、なんて關係ありませんでした。とにかく唐土、それも現實の唐土ではなく、漢籍の中にある唐土が絶對基準でした。
もちろん、日本の獨自性を主張した本居宣長のやうな學者もゐますが、これなんかは例外中の例外です。
そして明治以降は西洋が崇拜の對象でした。明治初期に西洋人に日本の歴史をたづねられた人が「日本に歴史はありません。すべてはこれからはじまるのです。」とこたへたさうです。西洋的價値觀が入るまへの日本に誇るものなどなにもない、といふのです。
殘念ながら日本はずっとそれをひきずってきました。いっとき、大東亞戰爭のときには、ゆがんだ形ながら日本の獨自性を主張するうごきもあったのですが、敗戰のため、はげしい反動がきて、以前以上に西洋崇拜、文化植民地根性になってしまひました。
夜郎自大になる必要はありませんが、わが國はわが國の文化を、獨自性をもっと誇るべきだと思ひます。要するに「よそはよそ、うちはうち」といふことです。
漫畫に關しては、かつては手塚治虫さへも子どもに害惡をおよぼす俗惡作品の代表とされたものでした。浮世繪だって、ゴッホらが心醉するやうなことがなければ、おそらくすべて反故になってゐたことでせう。
廢佛毀釋の際には、寺院や佛像が文字どほり毀損されさうになりました。それを救ったのは西洋人による評價でした。
われわれは「西洋人が評價するからすばらしいのだ。」ではなく、「われはれがよいと思ふものは、だれがなんと言はうがすばらしいのだ。」と、一日もはやく言へるやうにならなければいけません。

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