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2008年9月に作成された記事

ツンデレももはや學術研究對象

土曜ことばの会」といふ言語學研究會があるさうです。詳細はリンク先を。
その次囘(10月11日)の發表會では「役割語としてのツンデレ表現―役割表現研究の可能性―」 といふ發表がおこなはれるとのこと。ツンデレももはや立派な學術研究對象なんですね。發表者は粗忽亭の大學漫研の先輩です。なほ、

第2弾、「ツンデレ表現の待遇性」も執筆中です。

ださうです。
ちなみに、發表者は甲南女子大学文学部日本語日本文化学科の日本語學の教授ですので、岡田斗司夫さんの「オタク文化論」なんかとは相當毛色のちがふものだと思ひます。多分。

京都の日本料理店、ミシュラン掲載を拒否

asahi.comの記事より。
掲載を拒否、ってのは言葉のあやです。ミシュランが勝手に評價し、勝手にのせたって文句は言へんだらうし。つまり、「ミシュラン」にのせるための寫眞撮影を拒否してる、ってことです。
これ、思ふに紅白歌合戰とロックミュージシャンみたいなもんぢゃないかな。いまの紅白にどれぐらゐの權威があるのかは知らんけど、かつて視聽率70%とかとってたころの紅白は大變な權威があった。出演するのは一流人氣歌手の證明みたいなものだった。紅白に出るとギャラのランクがはねあがったらしい。特に演歌系の歌手なんかは、地方公演のギャラがドンとあがるので、紅白出演の有無はまさに死活問題だったらう。
しかし、たとへばロックミュージシャンとか、最初からテレビでの仕事をやってゐない、コンサートだって賣り興行でないミュージシャンは紅白に出るメリットは無いにひとしい。紅白のギャラ自體はたいした額ではないらしいし、それでゐてリハーサルなどに長時間拘束されて、自分の出番以外のアトラクションにも參加させられて、っていふんぢゃ、出たがらない人が多くても不思議はない。
この件はそれに似てゐる。
「ミシュラン」はそもそも旅先でのレストランガイド、といった性格のものだ。つまり、はじめて行っても安心な店を紹介してゐる。しかしここで對象にされた京都の日本料理店は、大抵が一見客おことはりだ。ガイドにのせてもらってもメリットはないし、問ひ合はせてくる一見客にいちいち對應しなければいけなくなるのなら、デメリットばかり、とさへいへるだらう。
元記事には料理研究家の服部幸應さんの

世界のグルメが和食を食べに日本に来る国際化の時代。観光都市・京都の名店がミシュランの評価をボイコットするなら残念な話だ

といふコメントものってゐるが、それよりある老舖店主の

フランスの調査員が、我々の文化や伝統を学んでいるとは思えない

といふ意見の方にわたしは共感する。
文化といふものは、本質的にローカルなものだ。よく「世界に通用する文化」などといふいはれ方をされるが、文化なんてものは世界に通用しなくてもよい。もちろん通用しても一向にかまはないが、そのために文化の方からすりよる必要はない。「たまたま」通用してしまったのなら、それもよし、といふ程度でよいのだ。
たとへば漢詩なんてものは、高島俊男先生によれば、日本人がいくら勉強したって四分の一もわかれば御の字ださうだ。それはさうだらう。最低でも支那語ができなければ、詩の音韻的なうつくしさは理解できないだらう。詩の背景には膨大な漢籍の教養もある。そしてなにより、支那人が支那語で支那人としての生活の中からつくるからこそ漢詩なのであって、たとへおなじ漢字を共有してゐるからといって、日本人がおいそれと支那人(の教養人)とおなじやうなものが作れるわけがない。
われわれの文化だってさうだ。フランス人に俳諧を、イギリス人に和歌を、アメリカ人に連歌を評價されたくはないだらう。
文化の方から「世界標準」にすりよるとどうなるか。われはれはすでに「柔よく剛を制する」はずの柔道が力まかせ(ゆゑに體重別)で、さらには一本をとるよりもこせこせとポイントをかせいだ方が有利なJUDOになってしまった例を知ってゐる。
「ミシュラン」にのせてもらへてありがたい、とか言って、「權威」にしっぽをふってゐるよりは、突っぱねてしまふ方がとにもかくにも京都らしい。
わたし個人としては、いちいち紹介が必要なところで飯を食ひたいとは思はないが、かういふ文化もあっていい。京都の料理店の矜持と見識をわたしは支持したい。

朝日新聞、日本語崩潰

昨日(9月15日)付けの朝日新聞東京本社版敎育面にあった「存在意義探る女子大」といふ記事。筆者は石川智也。
記事内容は、一月中旬、お茶の水女子大、奈良女子大、津田塾大、東京女子大、日本女子大の5大學が「21世紀に生きる女子大学」といふシンポジウムを開いた、といふことにからめたもの。
それはともかく、この記事、文章がすごいよ。いはく

日本の女性管理職の女性比率は10%

ださうだ。日本だらうが、ドイツだらうが女性管理職の女性比率は100%だと思ひますけどね。日本には女性でない女性管理職といふ鵺みたいなのが90%もゐるんですかね。まるで小學生なみの文章だ、と言ったら小學生が怒りますね、これは。
それにしてもこんな文章を署名入りで發表する記者さんの心臟にはおそれいる。こんな文章をとほしてしまふ校閲の仕事ぶりにも感心する。なによりもこんな文章を數百萬部も印刷してばらまく朝日新聞社の度胸には言葉をうしなふ。
新聞社さん、おねがひだから、記者には義務敎育レベルの日本語がつかへるやうにちゃんと敎育してください。といふか、そんなやつ入社させて記者にするな。新聞記者の日本語能力の低下もつひにここまで來たのかと、あきれるばかりだった。
ついでだけど、このシンポジウムもなかなか香ばしい内容だったやうで、

パネリストから、「貧困や格差は男支配のなれの果て。女子大の役割は男性の再教育」という発言も飛び出し、盛り上がった。

のださうだ。「男支配」ぢゃなければ、貧困や格差はなくなるんですかね。どれだけ粗雜な腦みそしてるんですかね。この發言もさきの5女子大の關係者の發言なんですかね。「受驗生の女子大離れ」や「不要論」に對抗するためには、かういふ馬鹿を排除するのが一番ぢゃないんですかね。

わざわざそんなルビを

今日の朝日新聞夕刊の「窓 論説委員室から」。タイトルは「21世紀が始まった朝」。執筆者は三浦俊章。その中の一節。

自由で開かれた社会を逆手にとって、人々を不安に陥れるテロ。

この引用文中、「逆手」に「さかて」、「陷」に「おとしい」とルビがふってある。
後者は問題ないが、前者は本來「ぎゃくて」と讀むべきもの。柔道なんかで、關節を反對にまげて取ることをいふ。「さかて」といふのは、逆上がりのときの鐵棒の握り方、あるいは座頭市の刀の握り方のやうなものの持ちかたをいふ。
よって、この場合は「ぎゃくて」が正しい。
現在では「さかて」と誤讀される場合が多く、その讀みもほぼ容認されてはゐるが、嚴密には正しくない。わざわざルビを正しくない方でつけることはなからう。
朝日新聞の論説委員さんと校閲擔當者さんは、相當日本語に不自由とみた。日本語が碌にできなくても、朝日新聞社では出世できるんですね。氣樂な稼業だなあ。

韓國の子どもがちょっとかはいさうになった

「痛いニュース」にあった記事
まあ、領土係爭中の地を自國のものだって敎へるのはわかる。といふか、そのへんはわが國ももっと見習ふべきだと思ふ。
だけど、その際にはちゃんと相手側の主張・根據も紹介して、そのうへで自國の主張の方の正當性・優位性を強調するのが正しいやり方だらう。これを讀むかぎりでは、どうも日本側の主張・根據はまったくふれられてゐないみたいだ。歴史的經緯なんかも敎へてゐないのだらう。
しかも
「ドクトに攻めて来る国は日本」
なんてことまで敎へてゐるんだね。日本人ならだれ一人信じないうそを。良くも惡くも、日本は紛爭解決手段としての武力の發動を憲法で放棄してゐるのに。當然そんなことはおくびにも出さず、日本はいまでも帝國主義國家だ、なんて敎へてゐるんだらうね。
一番あきれるのが
「国際裁判」の寸劇でも、日本は完全に主張が退けられ、悔しがると言う場面まで生徒が演じました。
のくだり。日本は國際司法裁判所に付託しようと再々言ってゐるのに、それを拒否してゐるのは韓國の方だ。そんな寸劇をやらせるぐらゐなら、とっとと「国際裁判」とやらに應じて、日本を悔しがらせればいいぢゃないか。勝負から逃げておいて、「まあ、たたかったら俺が勝つけどな。」と言っているわけだ。それとも、「相手が勝負から逃げてゐる。」とか大噓を言ってゐるのだらうか。
くりかへすが、領土係爭中の地を自國のものだと敎へるのはよい。だが、それは、あくまで事實に基づいて、そのうへで自國の主張の正當性を敎へるべきものだ。はじめから偏頗なうそを敎へて、國際的に通用しない人間をつくることではない。
こんな敎育をされてゐる韓國の子どもがちょっとかはいさうになった。

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