どことはいはないが、私が目を通してゐるとあるブログで漢字の字體のことがちょっと話題になった。そこに次のやうなコメントがついた。
〈引用ここから〉
私は、あまりいろんな漢字を区別して使うことに反対です。たとえばわたなべさんという苗字は、以前は渡辺か渡部の2種類が書けたらよかったのに、このごろは渡邊とか渡邉とか、とても憶えられないような漢字をつかいます。(コンピュータだから書けるので手では書けない。私は辺で勘弁してもらってます)この2字の違いはルーペがないとわからないので、老眼には、ジジハラとしか思えません。こんな苗字のひとは渡辺に換えなさい。そのほうがトクですよ。
日本は戦争に負け、民主的な世の中にするため、漢字を簡略化しました。「恋」は戦前は 糸言糸+心 と書いた(わかりますか)。「体」は昔、 骨豊 と書いた(うまい)。ずっと便利になった。ところが、君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力が、いろいろ戦前の体制に戻す運動の一環として、名前に関しては、旧字の使用を認めた。そのインボーに安易に乗っかった人が自分も困り、まわりも困らせているのです。
〈引用ここまで〉
私はこのブログはまったくのROMなのだが、正字正かな主義者の私まで「君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力」と言はれてゐるみたいで、なんとなく不愉快であった。
私は「民主主義者」ではないが「反民主主義勢力」でもない。民主主義には一定の效用をみとめてゐる。それと同時に一定のマイナス面も認めてゐるだけだ。この點について書きはじめると民主政治と民主主義とをわけて論じるなど、日乘の1エントリではとてもおさまらない量になるので、省略する。問題は漢字の戰後略字(當用漢字、常用漢字、擴張新字體)についてだ。本來は當該ブログのコメント欄に書くべきことかもしれないが、そこは漢字についてのブログではなく漫畫についてのブログであり、KYと言はれかねないので自分のところに書く。
引用部分の前半については、まことに大きなお世話ではないだらうか。その傳でいけば、嶋田さん嶌田さんも島田と書け、といふことだらうか。名前といふのはアイデンティティそのものだ。どういふ字體で表記するかは大きく言へば個人の信條にかかはってくる。安易に損得で判斷すべきものではない。前にも書いたが、德川光圀を德川光國と書かれたら、やはり變だ。ほかにも私は澁澤龍彦(彦は本當はこの字ではない)を渋沢竜彦と書かれたら別人のやうにしか思へない。
後半については、ほかにもなんとなく、こんなふうに思ってゐる人がゐるのではないだらうか。これはまったくの誤解、といふより迷妄である。戰後の漢字改革(當用漢字音訓表制定による漢字制限ならびに略字體の採用)は民主主義とは關係がない。
日本には明治以來、否、幕末の前島密以來、日本語の音標文字化を主張する勢力が多數ゐた。その言はんとするところは、單純化すると「日本や支那よりも進んでゐる歐米諸國は漢字など使ってゐない。音標文字を使ってゐる。ゆゑにわが國語も音標文字(かな乃至ローマ字)化すべきだ。」といふことだ。
これは明治以來、政府、特に文部省の方針として長く維持されてきた。文部省の肝煎りでナントカ調査會とかナントカ審議會といふものが作られ、何度もその方向での答申が出された。しかし、一國の文字表記をかへようといふのである。當然反對もつよい。有名どころでは新村出博士が反對者だ。そのため、戰前は一度も決定・實施にいたらなかった。
ところが大東亞戰爭の敗戰による混亂に乘じて、といふか、一億總懺悔、これまでのものはすべてマチガイ、といふ風潮に乘じて文部省がクーデター的に發表・實施したのが當用漢字音訓表だ。當用漢字音訓表の發表時點では、文部省はこれは過渡的なものとかんがへてゐた。過渡とはなんの過渡か。漢字全廢、國語の音標文字(具體的にはかな)化のだ。そのために漢字の數を制限して、字體も簡略化したのだ。しかし、その後、中心勢力であったカナモジカイの松坂忠則の引退もあって、そこで頓挫した。ざっと言へばこのやうな經緯だ。以上見たやうに、當用漢字音訓表制定は明治以來の政府・文部省の宿願であった。戰後の民主化とは關係ないことが理解できよう。
漢字を簡略化して便利になった、といふが、印刷の字體と手書きの字體は別物だ。手書きでは國を国、あるいは口、または口の中にヽ、で一向に構はない。別段正字だからといって不便だといふことはない。
右派勢力の中に比較的正字正かな派が多いのは事實だらうが、だからといって「戦前の体制に戻す運動の一環として」「旧字の使用を認めた」といふのは飛躍にすぎない。先に名前をあげた澁澤龍彦などは「君が代や日の丸を強制する反民主主義勢力」どころか、みづからアナーキストをもって任じてゐた人だ。これをみても政治思想と文字表記の思想(とでもいふべきもの)は關係ないことがわからう。
文字の表記といふのは純粹に文化の問題だ。變に政治とからめてかたるのはやめてほしい。
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