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「坊っちゃん」とメイドさん

高島俊男先生の近著に「座右の名文 ぼくの好きな十人の名文家」(文春新書)といふのがある。この十人のうちの一人が夏目漱石だ。この本の漱石の項の副題は“『坊っちやん』は「探偵・恋愛小説である」”といふものだ。
探偵小説である、といふことについては措くとして、戀愛小説である、といふことについてのべたい。
高島先生は、「坊っちやん」は坊っちゃん(主人公)と淸との、「戀愛」小説だ、「戀愛」小説といふのが不適當なら、「愛」の物語だ、といふ。
ご存じだとは思ふが、「淸」といふのは坊っちゃんのうちに長く仕へてゐる下女の老婆だ。坊っちゃんが子どものころから、たいへんかはいがってくれてをり、坊っちゃんも淸を好いてゐる。そもそも“坊っちやん”といふタイトルは、淸が主人公をさう呼んでゐることによる。ちなみに主人公の名前は作中には一度も出てこない。一人稱體の小説だから、地の文では「おれ」、淸のことば乃至手紙では「坊っちやん」となってゐる。
さて、どこがどう「愛」の物語なのかは割愛するので、興味のある人は「座右の名文」を讀んでいただくとして、高島先生は坊っちゃんと淸の關係を次のやうに書いてゐる。

(引用ここから)
清は、神のごとき存在である、とぼくは感じる。
坊っちゃんが大すきで、ありのまま、なんの注文もつけずにそっくりうけいれてくれる。しかもこの神は坊っちゃんにとって目下の神だ。清は坊っちゃんのうちの下女であり、清にとって坊っちゃんは「坊っちやん」、すなわち「仕えている家のご子息」であり、つまりは主人である。(中略)坊っちゃんは清の主人だが、坊っちゃんにとって清は神さまである、目下の女神である、とそういうことになる。(中略)けっして自分を責めたりせずにまるごと認めてうけいれてくれる理想の女性、あるいは女神としての女。(後略)
(引用ここまで)

この關係、なにかに似てゐないだらうか。さう、エロゲなどの「メイドさん」だ。主人公(プレーヤー)が大すきで、まるごと認めてうけいれてくれる女神のごとき目下の存在。
もちろん淸は老婆なので、直接的に戀愛、としてはゑがかれてゐない。せいぜいアナロジーである。しかし、構圖はまったくおなじといへる。といふことは、漱石がいまの人であったなら、メイドエロゲをつくったり、それにはまったりしてゐたかもしれない。

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コメント

はじめまして、あび卯月と申します。
先月頃から御ブログを愛讀してをります。

私も『坊つちやん』が好きで今まで何度も讀み返へしてゐますが、この「淸=(エロゲなどの)メイドさん」といふ構圖は思ひつきませんでした。
高島先生の「淸=女神」論を敷衍して「淸=メイドさん」論を提唱する粗忽亭主人さんに敬服いたしました。
メイドモノのエロゲにハマる漱石を想像しただけで微笑ましいです。
なんてことを云ふと一般の漱石ファンから石を投げられさうですが。

コメントありがたうございます。そんなふうにおっしゃっていただくとおもはゆいばかりです。高島先生が「坊っちやん」を「戀愛小説」と喝破していらっしゃらなければ、このやうなことはとても思ひつかなかったでせう。明治の御世も平成の御世も、男にとっての理想の女性像、いひかへれば都合のいい女性像はかはらないものだなあ、と感じた次第でした。
わたしは「坊っちやん」は隨分むかしに一度よんだきりなのですが、むすびの文(これは高島先生がおっしゃるとほり、文學史上有數のうまいむすびかたなので、完全におぼえてゐます)をさしての、坊っちやんは來世でも淸と所帶をもつつもりとの指摘にはひざを打つおもいでした。

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