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支那は侮蔑語にあらず

今朝の朝日新聞東京ローカル面に「メンマの名付け親逝く」の記事。内容はタイトルどほり。「メンマ」といふ名前を考へたと言はれる松村秋水さん(他説もあるらしい)がなくなった、といふこと。
その趣旨自體はいいのだが、讀んでゐて不愉快な記述あり。
「(メンマは)當時侮蔑的に使はれてゐた『支那』から『シナチク』と呼ばれてゐた。」
どうしてさういふミスリードをするのかね。「支那」が侮蔑語ではないことなどあきらかなのに。
「支那」が侮蔑語なら、東シナ海も南シナ海もインドシナ半島もシナントロプス・ペキネンシスもChinaもすべて侮蔑語になってしまふ。孫文や魯迅はどうなる。みづからの國を「摩訶支那」とほこりたかくとなへた玄奘(三藏法師)は自國侮蔑者か。そしてなにより「中國」といふ表現をほとんどつかはず、ほぼ「支那」でとほしてゐる呉智英さんを手塚治虫文化賞の銓衡委員(朝日新聞の表記では選考委員)にむかへてゐる朝日新聞社の立場はどういふことになるのか。
といふと、「いえいえ、侮蔑語とはいってゐませんよ。侮蔑的に使はれてゐた、といってゐるだけですよ。」といひわけする氣だらうか。
しかり、侮蔑的に「支那」「支那人」といふ使はれかたはあった。しかし、敬意や親愛の情をこめて「支那」「支那人」と呼ぶ人もあった。さういふ價値觀を特にこめずに「支那」「支那人」といった人はもっとずっと多かっただらう。
侮蔑的な使ひかた、といふのなら、「この中國人め!」といったときの「中國人」は侮蔑的ではないとでもいふのか。「犬と日本人立ち入るべからず」といった場合の「日本人」は侮蔑的ではないのか。「支那」といふことば自體の問題ではないのだ。
支那を支那と呼ぶとサベツ者あつかひされるのは世界中で日本だけである(Chinaの例からもおわかりであらう)。もうこんなばかばかしいことはいい加減よしにしてもらひたいものだ。

(附記1)MS-IMEでは「支那」と變換できないんですね。これも目に見えない言論彈壓の一例。
(附記2)「支那」といふことばの語源や、どのやうにして使はれてきたのか等は、あちこちで書かれ、説明されてきてゐる。ネットでもいくつも見ることができるが、小生が讀んだなかでもっともおもしろく、かつ勉強になったのは高島俊男先生の「『支那』はわるいことばだろうか」だ。文春文庫「本が好き、悪口言うのはもっと好き」にはいってゐますので、興味のある方は御一讀ください。

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