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2007年5月に作成された記事

これぢゃわからないよね

 當日乘では、いくつかまへの記事から正字正かなをもちゐてゐる(註1)。これは勿論、「現代かなづかい」・「現代仮名遣い」(註2)(以下新かなといふ)や、當用漢字・常用漢字(註3)およびそのながれをくむ擴張新字體(註4)(以下あはせて新字といふ)の不合理性が氣になってゐるためだ。
 文字表記の問題は、文化のうけつぎといふ點でも大きな問題がある。つまり、昭和21年以前に出版された書物が讀めなくなりかねない、といふことだ。
かなづかゐの方は、新かなしか知らない人が正かなを見ても、それほど問題もなく讀めるのではないかと思ふが、漢字の方は困難がともなふのではないかと思ふ。
 今日の朝日新聞東京マリオン面にそれを思はせる表記があった。「逸品ものがたり」といふ連載記事。今日のお題は「ひしや 祢り羊羹」。記事中に下のごとくある。
《引用開始》
「祢り羊羹」の「祢」という字は「禰宜(神職)」から取ったものという。
《引用終了》
これでは「禰」といふ字は「禰」の新字(略字)だといふことを知らなければ意味をなさない。かういふものを見るにつけ、いはゆる戰後國語改革といふものは、とりかへしのつかない愚擧であつたのだなあとつくづく思ふのだ。

(註1)正字については、パソコン表記ゆゑの限界があり、完全なものではない。また、かなづかゐについては、促音の「っ」、拗音の「ゃ」「ゅ」「ょ」を小文字で表記してゐるが、これは意圖的なものである。なほ、引用文など、例外的に新字新かなをもちゐるばあゐもある。
(註2)「現代かなづかい」は昭和21年内閣告示、「現代仮名遣い」はそれを一部改定したもので、昭和61年内閣告示。
(註3)當用漢字は昭和21年内閣告示、常用漢字はそれを一部改定したもので、昭和56年内閣告示。
(註4)龍→竜の類推で、常用漢字でない「籠」を「篭」と表記するごときのもの。

せめてまともな日本語がつかへるやつを委員にしろよ

 敎育再生會議とかいふ國の機關が第2次報告、といふのを出すのださうだ。で、當初、「親學」なるものを提言するつもりだったさうだ。しかし、たとへば伊吹文明文部科學大臣の「人を見下したやうな訓示や敎へは適當ではない」などの意見により、見送られることになったのださうだ。
 で、どんな提言を出すつもりだったのかが報道されてゐるけど、そのひとつが「保護者は子守歌を歌い、おっぱいをあげ、赤ちゃんの瞳をのぞく」ださうだ。
 ん?「おっぱいをあげる」?
 この提言を書いた人は身内に對しては「やる」「あたへる」、他人に對しては「あげる」といふことも知らないらしい。「こちらがわ」は低く、「あちらがわ」は高くいふのは日本語の基礎の基礎だらう。「おっぱいをあげる」ぢゃ他人の子供に授乳することになってしまふ。
 敎育についての提言をさせるのなら、日本語ぐらゐまともに使へるやつを委員にしろよ。自分の國のことばをまともに使へないなんて、敎育がどうのといふ以前の問題だ。それとも「美しい日本」には敬語は不要、なのかね。

(附記1)この件を擔當した第2分科會のメンバーは以下のとほり。
淺利慶太(副主査) 劇團四季代表・演出家
池田守男(主査) 株式會社資生堂相談役
海老名香葉子 エッセイスト
川勝平太 靜岡文化藝術大學學長
小谷實可子 スポーツコメンテーター
品川裕香 敎育ジャーナリスト
張富士夫 トヨタ自動車株式會社會長
野依良治 獨立行政法人理化學硏究所理事長
義家弘介 橫濱市敎育委員會敎育委員、東北福祉大學特任講師

(附記2)
 「やる」「あたへる」と「あげる」の關係は、嚴密にいふと、かならずしも敬語のわくでくくれるものではない。「こちらがわ」と「あちらがわ」の距離感の問題でもあり、人稱代名詞のかはりでもある。

支那は侮蔑語にあらず

今朝の朝日新聞東京ローカル面に「メンマの名付け親逝く」の記事。内容はタイトルどほり。「メンマ」といふ名前を考へたと言はれる松村秋水さん(他説もあるらしい)がなくなった、といふこと。
その趣旨自體はいいのだが、讀んでゐて不愉快な記述あり。
「(メンマは)當時侮蔑的に使はれてゐた『支那』から『シナチク』と呼ばれてゐた。」
どうしてさういふミスリードをするのかね。「支那」が侮蔑語ではないことなどあきらかなのに。
「支那」が侮蔑語なら、東シナ海も南シナ海もインドシナ半島もシナントロプス・ペキネンシスもChinaもすべて侮蔑語になってしまふ。孫文や魯迅はどうなる。みづからの國を「摩訶支那」とほこりたかくとなへた玄奘(三藏法師)は自國侮蔑者か。そしてなにより「中國」といふ表現をほとんどつかはず、ほぼ「支那」でとほしてゐる呉智英さんを手塚治虫文化賞の銓衡委員(朝日新聞の表記では選考委員)にむかへてゐる朝日新聞社の立場はどういふことになるのか。
といふと、「いえいえ、侮蔑語とはいってゐませんよ。侮蔑的に使はれてゐた、といってゐるだけですよ。」といひわけする氣だらうか。
しかり、侮蔑的に「支那」「支那人」といふ使はれかたはあった。しかし、敬意や親愛の情をこめて「支那」「支那人」と呼ぶ人もあった。さういふ價値觀を特にこめずに「支那」「支那人」といった人はもっとずっと多かっただらう。
侮蔑的な使ひかた、といふのなら、「この中國人め!」といったときの「中國人」は侮蔑的ではないとでもいふのか。「犬と日本人立ち入るべからず」といった場合の「日本人」は侮蔑的ではないのか。「支那」といふことば自體の問題ではないのだ。
支那を支那と呼ぶとサベツ者あつかひされるのは世界中で日本だけである(Chinaの例からもおわかりであらう)。もうこんなばかばかしいことはいい加減よしにしてもらひたいものだ。

(附記1)MS-IMEでは「支那」と變換できないんですね。これも目に見えない言論彈壓の一例。
(附記2)「支那」といふことばの語源や、どのやうにして使はれてきたのか等は、あちこちで書かれ、説明されてきてゐる。ネットでもいくつも見ることができるが、小生が讀んだなかでもっともおもしろく、かつ勉強になったのは高島俊男先生の「『支那』はわるいことばだろうか」だ。文春文庫「本が好き、悪口言うのはもっと好き」にはいってゐますので、興味のある方は御一讀ください。

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