氣になることば
書かなければいけないことがだいぶたまってはゐるのだが、少々いそがしいので、ライブ鑑賞記をはじめとする「日乘」はしばらく書けない(=たまる一方)ことになるかもしれない。あれはあれで結構時間がかかるのです。
で、つなぎに、といふわけでもないが、ネット語、若者語等で氣になることばについて。
そもそも小生は新語や流行語のたぐひの九割以上はきらひなので、いちいちあげていったらきりがない。それに、いはゆる「ギャル語」とかになると、これはもう、全體がジャーゴン、といふか、一種の都市方言ともいふべきもので、小生らのことばと體系からしてちがふので、かへって氣にならない。問題はフツーのことばにまじってゐるがゆゑに氣になることばだ。つまり、違和感を感じることばをいくつかあげてみようと思ふ。
「ありえない」 本來の意味での「ありえない」ではない、最近よくある使はれかた。從來なら「信じられない」といふところか。現實に目の前で起こってゐることについて「ありえない」、といはれると、大變違和感がある。
「眞逆」 ネットでよく見かける。「まさか」と讀んでゐたのだが、文脈に合はないのでしらべてみたら、「まぎゃく」と讀んで、正反對、の意味のやうですね。もともと眞逆と書く語(まさか)があるのに、おなじ字をつかひ、しかも湯桶讀みといふのは、ことばに對するセンスがわるい、としかいひやうがない。
「半端ない」 わかい連中のことばかと思ってゐたら、小生の大學の同期生がつかってゐたので、おどろいた。もともとは「半端でない」(A)、「半端ではない」(B)、「半端ぢゃない」(C)、といふところ。名詞+助詞+形容詞だったのが、一語化して形容詞的につかはれてゐるやうだ。いま、グーグルで檢索してみたら、「半端ない」約425,000件、A約75,500件、B約90,300件、C約390,000件のヒット。もはや「半端ない」が主流らしい。でも、なんか舌たらずに感じてしまふ。
「元氣(勇氣、パワー、力 etc.)をもらった」 だいぶまえからつかはれてゐることばだが、何度見ても元氣(勇氣、力 etc.)が出た、でいいんぢゃないのかなあ、と思へてならない。もらった、といふところに、なにかべたべたしたものを感じて、背中がむずがゆくなる。
「カキコ」 これももはや新語とはいひがたいおなじみのことば。いふまでもなく「書きこみ」の意味。一種の略語だらうが、一文字くらゐ略さなくてもいいのに、と思ってしまふ。「カキコする」にいたっては「書きこむ」より長くなってしまふ。
まだまだあるが、こんなところで。
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コメント
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お久しぶりです。
鳥居元忠ファンのMASATOです。
私はおじさん世代なのですが、自分より若い人と話す時はおじさんと思われるのを何となく避けたくて今時言葉に合わせてしまいます。(笑)同世代・年上にはやはりその世代に合った言葉に合わせてしまいます。(笑)これってどうなんでしょうね。
只 歴史小説に出てくる「相わかった」とか「ならぬではないか」という言葉は風格があっていいなあと思っております。
投稿: MASATO | 2007.05.02 03:38
>MASATO樣
おひさしぶりです。とはいひつつ、MASATO樣のサイトはちょくちょく讀ませていただいてゐます。
はなしことばの場合は、意圖的にするしないにかかはらず、自然に相手に「あはせる」やうな感じになるのかな、といふ氣がします。
私の場合は普段は共通語で話してゐますが、故鄕(近畿)に歸ると、そちらのことばでしゃべってゐます。どちらも意識してではなく、まったく自然にさうなります。
ちなみに、世間樣は「關西人は日本中どこに行っても大阪辯でしゃべる」とおもってゐる人が多いので、「關西出身なのに大阪辯ぢゃないね。」といふことばは三萬囘ぐらゐ聞かされました。
投稿: 粗忽亭主人 | 2007.05.08 17:06